妄想泥棒のブログ(銀英伝・ハガレン二次創作小説とマンガ・読書・間宮祥太朗ドラマ感想)

妄想泥棒のブログ(銀英伝・ハガレン二次創作小説とマンガ・読書・間宮祥太朗ドラマ感想)

旧名「給料泥棒のブログ」を2014年7月に変更。
銀英伝ヒルダ視点による大河もどき小説を書いてましたが150話をもって完結。ハガレン小説も全86話で完結済。
2014年3月から、俳優間宮祥太朗さんのことしか呟けない病にかかりました。しばらくそっとしておいてください…。

 

見終わった後、結構時間経ちましたが、まだ心のざわざわが消えません

これを「余韻」とか「面白かった」と脳天気に表現するにはちょっと憚られる。自分はそういう重みをこの作品から確かに受けとったんだと思っています。

 

 

①考察ドラマとして物足りなかった点は確かにある

 

最終回視聴後の感想の中で、ネガティブ反応で多かった意見は

「伏線回収が全然足りない。結局何だったのというままの案件多すぎる」

というものでしょう。このドラマは考察系として喧伝され、それを最大のモチベーションにして力を入れて考察していた人が大勢いるので、私もこの意見は理解できます。

特に、“宇都見が「一部」の犯行を認め”とまで報道させてるんですから、せめて実は宇都見がやったんではない箇所くらいは匂わせでいいから答えが欲しかったなあ。

 

 

答えが無かった以上、勝手に妄想するしかないからそうさせてもらうけれども、私は、シナリオとして一応全部の犯行方法や実行犯というのは決まっていたはずだと想像している。そうでなければこれは書けなかっただろうと。

ターボーが裏の黒い顔を持ちそれが仮にクスリなどの悪行だった場合、カンタローあたりは協力させられていたりしそうだ。

けれども、いざ全ての「答え合わせ」を書いてみたら、何かが違うと感じたんだろう。恐らくはそうする事で、考察ドラマらしさは全うできても安直さやご都合主義的な軽さがどうにも誤魔化せなかったんだろうし。

あともう一つありそうな可能性としては、それを描くことで善悪のバランスが崩れてしまい、ただの「悪い奴らは殺されて当然でした」みたいな印象になってしまうと判断されたのではないかと。

うん、くどいけど全部私の想像かつ個人的意見ですけどね、ハイ。

 

 

考察系らしい要素の最大の驚きとしては、

実は森のくまさんの替え歌は後からターボーが(恐らく意図もあり)勝手に解釈しただけで、殺された順番は単にキングがイマクニに連れてきた順だったっていう点でしたね。キング死神かよ…ゾッとします。

 

 

 

②目的は手段を美化しない

 

本当に色んな見地からの感想が溢れているので、それだけで製作陣が覚悟を持って振り切った方向が間違いではなかったんだなと思えます。多くの人が、いじめという問題について深く考えさせられた

 

 

感想を読むと、その人がどういう体験をしてきたのか想像できる気がしました。その結果、この私にも自覚していた以上の加害性や生存者バイアスの様な偏向性があると感じています。

 

 

具体的には、イマクニと東雲がいじめ被害者の気持ちを代弁するかの様に語ったこれらの台詞

「いじめは殺人と一緒」

「いじめた側が夢を語ってのうのうと生きるなんて許せない」

「いじめは犯罪として裁かれる法律が必要」

ここは間違いなく重要な箇所でしたが、「こここそがこの作品で一番伝えたかったメッセージだろう」と受け止めている方には、私とは全然異なる経験と生き方をしてきたんだろうなあという感想を抱いてしまいました。もうね、問答無用で「いじめは絶対悪、許すまじ」派の方ですね。

私はこの感想を抱いた方達に反論しようとは全く思わない。間違いなく「正しい」ことおっしゃってます。

 

 

でもね、私はこの場面をほぼ真逆の方向で受け止めていたんです。

「なるほど。そうやって君たちまで悪い子になってしまったと」

 

 

私は、この物語の最も秀逸だった点は、見事に全員が「良い子でもあり悪い子でもある」と描写したことだと考えています。

取り返しのつかないことをいっぱいしてしまったキングも、良い夫で父でもあり変わろうとしてる。

園子は暗黒面に落ちず良い人間であろうと頑張っているが、仕事においては誰かにとっての悪にもなる

恐らくターボーたちだってクソガキであると同時に誰かにとっての大事な良い人だったはずだ。

 

 

大事な仲間や恋人だった紫苑が死んでしまって悲しいのは分かるが、それを理由に計画殺人・それも何人も、というのは…どちらの方が重罪か、法律専攻の人間じゃなくても誰でも分かるよ。

いかなる目的も手段を美化しません。こういう場面で、人間の感情の方を考慮・優先すべきと考える人とは多分私は一生意見が合わないでしょう。

 

 

あと、これは物語上の架空の人物だからこそ勇気を出して書きますが、実は私は紫苑の自死に余り同情できていません。失敗を笑いものにされて苦しかったのは分かるが、そんなん克服できんかったら人前で演奏するピアニストなんてなれるわけなかろう?と。弱さは正しさにはなり得ない。いつも誰かのせいにしたって何も解決しないですから。

 

 

恐らくイマクニと東雲は二人で自首しに行ったんだろうと思ってますが、物語の良心的帰結はそれしかないと私は考えます。

……うん、こう書いてみてやはり思いますね。私の中には間違いなくキングもターボーもいる(園子もいて欲しいが)。そういう自分が怖いし、気をつけて生きていかないと、ですね…。

 

 

 

③ラストシーンはあったかもしれない未来

 

キングなりの罪との向き合い方として、カメラの前での告白、そして記事による罪と真実の公開。

 

 

園子の時もキングの時も、無責任な正義気取りの世論が攻撃的に沸騰し、あっっという間に忘れて次を叩きにどっか行っちゃう。何というリアル。

でも、これがめでたしめでたしじゃないってどちらもわかってる。

 

 

やってしまった事は消えることはない。

誰にでも良い面と悪い面がある。

良いか悪いかは流されず自分の頭で考えたい。

人間はそんなに簡単に変われない。

けれども変わろうとしなきゃ永遠に変われない。

もし変わろうと頑張ってる人間がいたら、それだけでも褒めてあげたいね。良い子だって。

 

 

これからも、キング一家は気まぐれで無責任な攻撃を受ける事があるでしょう。

けれど、たったひとりでも、勇気を出して手を差し伸べてくれる人が現れたら。

そこには救いがあるし、できればそのひとりに自分がなる優しさや勇気を持ちたいものです…(鬼畜の様な自己責任論者になる瞬間がある私ですが…)

 

 

かつて、少年キングが園子を物置きに閉じ込めてしまった後で、後悔して開けに行こうとしたらもう先生に助け出されてて、泣いてる園子に素直に謝れず「知らねえし!」って強がってしまった場面がありましたよね。

 

ラストシーンで、花音が(恐らくケンカ相手だった)少年に助けられて扉を開けてもらった瞬間、これは、

あの時キングが間に合っていたら、間違えてなかったら、素直になれていたら

あったかもしれない未来だと思いました。

その瞬間は一瞬のことで些細なことかもしれないけれど、私たちってこういう岐路を毎日通っているのかもですねえ。

 

 

間違いなく、今クールいちの意欲作であり力作だったと思います。堪能しました。ありがとうございました。