こんにちは、2階のおばちゃんです。

 

梅雨が来るねえ。

今年は平年より遅くて短いらしいわ。

梅雨が明けると一気に暑なってGの出番となるねえ。

いくら家の中を物でゴチャゴチャせんよう片づけてやね、Gにとって居心地悪い

環境を作っても、玄関のドアと外壁の隙間に待機されてたらドア開けたとたん

「ごめんやしておくれやしてごめんやっしゃー」(古い?)って登場してくるからね。

ほとんど100%といっていいほど玄関から登場やから、さっそくゴイス

(Gがいなくなるスプレーっていう殺虫剤)を玄関ドアの周りにまく恒例行事を

始めたわ。ゴイスまくとほんまにGの登場が無くなんねんけど、夏場は共用通路の

照明に集まる無数のちっさい虫の死体がドアの周りにまいたゴイスに見事に

へばりついてドアの四方に無数のちっさい虫模様の縁ができるんが嫌やけどね。

 

ってことで、今日は何の話になるかって言うと、イギリスのアート界(アート市場)で有名なおっちゃんの話をするわ。

このおっちゃん、ジェイ ジョプリング(Jay Jopling)さんというお名前で

YBAsにとってなくてはならない存在やねん。

アートディーラーでありホワイトキューブ(White Cube)っていうギャラリーの

創設者でありイートニアンであり黒縁メガネがトレードマークの今年61歳になる

ええとこのボンボンやわ。

イートニアン(Etonian)っていうのは、イギリスの名門パブリックスクールの

イートン校出身者のことをそう呼んでんねん。

 

ここでジョプリングさんの写真を張り付けようと思てんけど、若いイケメン

じゃなくて60代のおっちゃんの写真やから見ても嬉しないやろうし載せるの

やめとくわ。

 

そういやYBAsにとってなくてはならない存在ってもう1人有名な人いたな。。。

って気づいた人いるかな?

そうそう、サーチギャラリー(Saatchi gallery)の創設者でありYBAsを牛耳ってはるアートコレクターのチャールズ サーチさんやわ。おばちゃんのブログ「Sensation」にも出てくるから読んでな。

1990年代に活躍したYBAsも今では50代60代のおばちゃんおっちゃんやから

「YBAsと呼ばれてた人たち」となり、ショックアートの時代と違って彼らの作品もアート市場もサーチギャラリーのアプローチもだいぶん変化したからサーチさんを「YBAsを牛耳ってはった人」って過去形にしたほうがええんかも知れへんけどね。確かにYBA作品をけっこう売却してたりするし、今では過去のような恐ろしく膨大な数のYBA作品はサーチコレクション(Saatchi collection)に残ってへんやろうけど、それでもあのころの結構な数のYBA作品を今でも保持してる可能性はあるやろうから、まだ牛耳ってはるっておばちゃんは思てんねん。

このサーチさんは、これから話すジョプリングさんと大いに関係があるから

頭ん中入れといてな。

 

それともう1人、重要な人物がいるねん。

デミアン ハーストさんね。この人、説明せんでもみんな知ってると思うけどね。

暇やったらおばちゃんのブログ「FREEZEとYBA」読んでな。

おばちゃんから見たハーストさんは「死に取りつかれた人」で

その取りつかれた℃が一番高かったのが80年代~90年代やったんちゃうかなと

思てんねん。

あの有名なホルマリン漬けしたヒツジやサメのお漬けもんよりも一番おばちゃんの

頭ん中に残ってんのが、下の1枚の写真やねん。ハーストさんっていうたら

どうしてもこの写真が頭ん中に出てくるわ。

ⓒ Damien Hirst/Licensed under myartbroker.com/Image credit: André Morin-Le-Jeune

 

この作品は、16歳のハーストさんが胴体から切り離され布に包まれた死体の頭部の

横で一緒に写ってる写真やねん。1981年に微生物学を学ぶ友達の社会見学に

同行してイングランド北部のリーズという都市にあるリーズ医科大学の解剖学教室に行ったときに撮った写真らしいわ。

その後、この大学の死体安置所でアルバイトをしてはってんけどね。

それから10年後の1991年に、この写真を拡大して「With Dead Head」という

タイトルを付けて作品にし、初となる2つのソロエキシビジョンでお披露目

したはるわ。

まあ、遺体の写真となるからねぇ、これってどっかの規制かなんかに引っかからへんかったんやろか。。。っていろいろ疑問に思うとこがある作品やけどね。

ゴールドスミスの学生の時に開いたグループ展1988年「FREEZE」や1990年「Modern Medicine」を経て、ゴールドスミス卒業の1991年にICA

(Institute of Contemporary Arts)っていう有名な総合芸術センター(ギャラリー、劇場、映画館を備えたでかい施設)でソロのエキシビジョンやらはったんやけど

ほんまにバケモンやわ。

因みにもう1つのソロエキシビジョンはウッドストック ストリート ギャラリー(Woodstock Street gallery)で、このギャラリーはアメリカ人のギャラリスト(gallerist アートディーラーでギャラリー経営してる人のことね) であるタマラ 

チョジコ(Tamara Chodzko)さんが空き店舗となってたとこを借り受けて

「ウッドストック ストリート ギャラリー」って名前つけて一時的に

ギャラリーにしたものやねん。このギャラリーでは後にも先にも1991年の

ハーストさんの初のソロエキシビジョンのみの開催で、それを最後に閉鎖された

幻のギャラリーやわ。要はハーストさんのハーストさんによるハーストさんのためのギャラリーやったってことやね。

このハーストさんもジョプリングさんを語るうえで外せへん存在やで。

 

そしたら、ジェイ ジョプリングさんの話に行くね。

 

1980年代終わり~1990年代のアートシーンは、若くて才能があって将来性のある

アーティスト達(YBAs)が脚光を浴びて活躍し、彼らの作品をキュレーションする

サーチギャラリーが活躍した時代で、コンセプチュアルアートが大盛り上がり

やったのは、おばちゃんのブログ読んでくれてたらなんとな~く想像しやすく

なったんちゃうかな?

「おばちゃん、ブログの更新おっそいで」って今つぶやいてくれた人、それは

「おばちゃん」やからやで。年いってくるとだんだん動作が亀に近づいてくるねん。長い目で気長に読んでくれてたら、知らん間に次のブログがでてくるから

「あれ?いつの間に。。。」ってなるで。

 

このYBAsとサーチギャラリーはイギリスで知らん人はほぼ、いいひんと思うわ。

そのくらい有名で輝いててん。

この頃のアートシーンを表から見ると圧倒的にYBAsとサーチギャラリーの名前が

あがるやろうけど、その裏を見るとある人物に行きつくねん。

それがジョプリングさんやねん。

アートに関係のある人やったらジェイ ジョプリングさんの名前を出すやろうな

と思うわ。

 

ジョプリングさんはそんじょそこらのアートディーラーと違いえらい目が利く人で、ずば抜けた行動力と自由な発想力を持った才能溢れた人やねん。アーティストが

キャリアを築くのに不可欠とされたアーティストとギャラリー間の従来のシステムに代わるアプローチを作り出した人でアート市場に新風を巻き起こした人やと

おばちゃんは思ってんねん。

 

ジョプリングさんは13歳からイートン校に入ったんやけど、イートン校ではちょっと知られた存在やったらしいわ。

オプアート(Op-art)で有名なアーティストであるブリジット ライリー(Bridget Riley)さんを説得してスクールマガジン(子供向けの文芸雑誌)の表紙のデザインを

してもらうことに成功した学生として知られてたんやって。

言っとくけどライリーさんに「お願いした」んちゃうで、デザインするよう説き伏せてんねん。ほんでもって、雑誌の発行元である「ニューサウスウェールズ教育

コミュニティ」から依頼があったんと違って13, 4歳の子供の勝手な独自の

アイデアでライリーさん(当時45歳)に話を持って行ってんねん。

怖いもの知らずやねぇ。

わずか14歳でギルバート アンド ジョージさんの著書「ダークシャドウ」(Dark Shadow)の限定版をアンソニー ドファイ ギャラリー(Anthony d'Offay Gallery)で購入したはんねんけど、子供の時から只者じゃなかってんなって思うわ。 

 

「ダークシャドウ」っていうのは、ギルバート アンド ジョージさんの日々の思考、不安、心配、行動、快楽を写真や詩みたいな文章で綴ったアート本で1974年に

出版されたものやで。

オプアートはオプティカルアートの略で、目の錯覚を覚えるような効果のある

幾何学的な構造の抽象絵画やわ。

Blaze 1 by Bridget Riley/ National Galleries of Scotland © Bridget Riley

 

その後、20代になってエジンバラ大学で美術史を学ぶんやけど、在学中に

セーブ ザ チルドレンのアートオークションを企画しはってん。

著名なアーティスト達から作品を寄付してもらうため初めてニューヨークまで行って作品をゲットしてきはってんて。

この頃のコンテンポラリーアートはニューヨークが盛んやったからね。名の知れた

アーティスト達の作品を複数揃えたかったやろうからニューヨークまで行って

交渉してきはってんやろね。

このオークションで50万ポンドほど売り上げたってジョプリングさんが

インタビューで言ったはんねんけど、いや~50万ポンドってすごいわ。

当時同じ学生でこのアートオークションを一緒に手掛けた人が

ジョプリングさんについて「彼はいつも精力的で好奇心旺盛でNOと言われるのを

恐れない人」やったと言ったはんねん。

子供ん時から優れた交渉力を持ったはってんね。

 

ジョプリングさんって押しが強い人なんかなって一見思うんやけど、ギルバート 

アンド ジョージさん曰く「彼はジェントルマンです」らしいわ。他の知り合いの

人も「F スコット フィッツジェラルドがギャッツビーについて語った文章の

ように、“彼が世界でただ1人話したがっている人間は自分なんだと思わせてくれる

ような人”です」って言ったはるわ。

なんやろ、ニュースステーションで松岡修造さんがアスリートにインタビューしはる映像が頭ん中に出てきたんやけど、あの人いつもしつこいくらい大げさに

アスリートを持ち上げながらしゃべらはる感じやろ?もしかすると

ジョプリングさんもすごい情熱をもって熱く盛り上げてくれる人なんやろか。

因みにイギリス人が言う「彼はジェントルマンです」は信用せんほうがいいで。

 

エジンバラ大学を卒業後、1980年代後半、ロンドンに引っ越してアート

コレクター達の仲介役として働き始めはんねん。

アートコレクターのためにミニマリズムアートの作品を探し、彼らがその作品に

支払った金額の一部を受け取ったはってん。

さて、ここでミニマリズムアートを収集したはった金持ちのアートコレクター、

覚えてるかな?

はい、チャールズ サーチさんやね。この時期に顔見知りになった可能性があるね。

 

ジョプリングさんはただ単に仲介役として働いてそれで終わってたわけじゃなくて、仲介役として得たお金で自分と同じ若い世代のアーティストの支援を始めはんねん。

彼が最初に支援したアーティストはマーク クイン(Marc Quinn)さんで、

ジョプリングさんの初の資金提供で開催したエキシビジョンは、1988 年に

東ロンドンのワッピングっていう地区の倉庫で行われたクインさんによる

インスタレーション作品やってん。

(おばちゃんのブログ「Sensation」にチョコっとクインさんが出てくるで)

この時は全く作品が売れへんかったらしいわ。だけどその3年後1991年、あの有名な作品「Self」をロンドンのギャラリー(Grob gallery 今はスイス)で展示し

話題となるねん。

 

同じく1988年にドックランズの倉庫で開催した若手アート学生たちの

エキシビジョンがあったね?

そうそう、「FREEZE」ね。でも面白いことにこの時はお互い接点がないんよ。

クインさんはゴールドスミスと関係ないしね。

でも他のアート関係者らと同じく、ジョプリングさんも関心を寄せたはったのは

間違いないわ。

「FREEZE」や「Modern Medicine」を見てとても印象に残ったし、こういう学生のプロジェクトが今のロンドンのアートシーンで形作られてきていると感じたって

言ったはるしね。

 

ジョプリングさんとハーストさんが初めて会ったのはゴールドスミスの学生だった

ハーストさん達のグループ展「Modern Medicine」が終わった後の1990年で、

その時のことをハーストさんがインタビューで答えたはるわ↓

「ジョプリングさんはアッパークラス(Upper class上流階級)の裕福な人っぽく

見えたんでちょっと苦手な感じやってんけど、出身地が同じリーズ(Leeds)やった

から共通点はあったわ。自分のギャラリーは持ってはらへんかったけどいろんな

ギャラリーでショーを開催してはったから興味はあったな。」

 

ここからジョプリングさんとハーストさんの切っても切れない関係が始まっていく

ことになり、ジョプリングさんのアートディーラーとしてのキャリアがドンドン

花開いていくねん。

ジョプリングさんはアーティストのエージェントのような役割に徹して仕事をしはる人やねん。(今は知らんで)

要は、まるでネージャーのようにアーティストの代理を務めるという発想やって、

その当時のアートディーラーにとっては斬新やってん。

ハーストさんのために多額の資金援助と後方支援、主要なエキシビジョンの開催、

作品の宣伝、アーティストの市場価値の確立と作品市場の開拓、経済的成功の

手助けを積極的にやっていかはってん。

なんかズラっと書いたけど、目標は「とにかく作品を売ること、高く売ること」、

これに尽きるんちゃうやろか。

レイチェル ホワイトリードさん(Rachel Whiteread)がハーストさんについて

「彼はいつも作品を売ることばっかり考えてはった」ってインタビューで

言ったはったわ。

 

1991年、ハーストさんがジョプリングさんに、ある作品のアイデアを

相談すんねん。

ガラスのタンクにサメの死体を入れてホルマリン液を流し込んで生体資料の

保存みたいにするアイデアを思いつかはったんやけど、まあ、考えただけで

めっちゃ金かかるのはわかるよね。

あのサメをゲットするだけで£6,000かかったらしいわ。

そのアイデアの図案をジョプリングさんに見せたら、いとも簡単に

「ええね、やろうや」って言われたとインタビューで言ったはったわ。

あのサメのお漬けもんが完成したあと、ハーストさんの「マネージャー」と

なっているジョプリングさんがサーチさんに£50,000という高額で売らはってん。

今は違うと思うけど、その当時サーチさんはハーストさんが作りたい作品なら

どんなもんでもお金出すでって言ってたのは結構有名な話やったわ。

このころのジョプリングさんはアートディーラーとしてはまだ実績が

浅かってんけど、サーチさんのような大物にも果敢に取引をする人として

アート市場ではすでに有名やったらしいわ。

 

サーチさんがミニマリストの作品からYBA作品のコレクションに移行したのも、

ジョプリングさんの影響が大きいねん。

ジョプリングさんが目を付けた若いアーティストの作品をサーチさんが買うという

構図が出来上がって、サーチさんにとってジョプリングさんは協力者であり

信頼できるパートナーとなってたと思うわ。

なんたってジョプリングさんが紹介するアーティストの作品をこれでもかってくらい買ってたしね。

 

1992年、サーチギャラリーで”Young British Artists”っていうタイトルのエキシビジョンを開かはってんけど、この時に”YBA”って言葉が世間に大きく広まってん。

どのメディアの記事もジョプリングさんの名前は出てこうへんけど、

このエキシビジョンに出てた作品のほとんどがジョプリングさんから購入した

作品やってん。このエキシビジョンは成功を収めて一気にイギリスのアートシーンがサーチギャラリーとYBAsで染まることになってくねん。

 

1993年、ジョプリングさんがとうとう自分のギャラリー「ホワイトキューブ」を

持たはってギャラリストとして動きださはんねん。

ロンドンのデュークストリートにあるクリスティーズ(Christie's オークション

ハウスね)から無償で寄付された小さいスペースやねんけど、このギャラリーでの

エキシビジョンが話題となりロンドンで一番ホットな商業ギャラリーと

なってくねん。

ホワイトキューブは作品を売ることに趣をおいてはって、サーチギャラリーとは

YBAの成功と認知に貢献していた点では一緒やねんけど、そのビジネスは

キュレーションに趣をおくサーチギャラリーとは違うねん。

その当時のホワイトキューブはYBAsの現代的な最先端の作品をいつも展示している印象で、最初の10年間ほどは、どのアーティストも2回以上作品を展示しないという決まりがあったらしいわ。

自分が声をかけたアーティスト達の「マネージャー」を続けながら、

ホワイトキューブでエキシビジョンを開催し作品をサーチさん含め他のコレクターや美術館に売ったはってん。

©White Cube

 

1997年、あの有名なエキシビジョン「Sensation」は、サーチさんのYBA作品の

コレクションを展示したもんやったけど、言い換えればジョプリングさんが見つけたYBAsのコレクションと言ってもいいくらいやったと思うで。

あの時に展示したマーカス ハーベイ(Marcus Harvey)さんの作品「Myra」(マイラ)もジョプリングさんから購入したもんやったしね。

 

2000年、ホワイトキューブはロンドンのホクストンスクエアにある広い

ギャラリーに移転(2012年閉店)、2006年には同じくロンドンのセントジェームスに特設のギャラリーをオープン、2011年にはこれまた同じくロンドンの

バーモンジーにヨーロッパで一番大きな商業ギャラリーをオープンしはって、どれもホワイトキューブって名前やねん。

2000年にはギルバートアンドジョージさんやアメリカの有名なアーティストの

チャック クローズ(Chuck Close)さんやドイツのアンゼルム キーファー(Anselm Kiefer)さんなど代表的なアーティストもリストに加えてYBAsだけでなく幅広く

アーティストを扱っていかはるようになるねん。

 

サーチギャラリーの成功はジョプリングさん無しでは成り立たへんかったと思うわ。

YBAと呼ばれた人達は当時の若いアーティストたちの中のほんの一握りやねん。

その人達を見極めることができる能力と才能は彼の途方もない努力の上で

成り立ってるわ。そんで、その彼を信じてくれたサーチさんの存在によって

イギリスのコンテンポラリーアートが変わって行ってんね。

 

そんな順風満帆やったホワイトキューブの活動とは別に、サーチさんとの良好な協力関係に変化が出てくんねん。

2003年、サーチコレクションに入ってたサム テイラーウッド(Sam Taylor-Wood 

今はTaylor-Johnson)さんの写真やビデオ作品を1つだけ残してサーチさんが全部

売却しはって、ジョプリングさんが怒ってサーチさんと不仲になったって噂が

広がってん。テイラーウッドさんはその当時ジョプリングさんの奥さんやって結構

有名なYBAの1人やってんけど、その2年前あたりからロンドンやニューヨークの

オークションで彼女の作品が20点以上売却されていた過去があって、そのいくつかはサーチコレクションからのものやったのがわかってるねん。

その時はジョプリングさんが何点が競り落として作品がどっかのコレクターの

知らんとこに行ってしまうのを防いだんやけどね。

その時もサーチさんに批判があってんけど、この時もまた同じように彼女の作品を

オークションで売りさばく決断をサーチさんがしはってん。コレクションに入れてる1人のアーティストの作品を1つだけ残してあとは全部一気に売るってことは、

「このアーティストの作品はもう要らんわ」って言ってるようなもんで、そのアーティスト自身と作品の価値を大幅に下げてしまうことになるからアーティストとしたら死活問題やねん。

サーチさんは作品を購入しても短期間で売却する人なのは結構知られてて、

テイラーウッドさんだけでなく、ジョプリングさんが「マネージャー」やってる

ハーストさんや他のYBAsの作品も手放していったはったけど、1人のアーティストの作品のほとんどを手放したのはテイラーウッドさんだけとちゃうやろか。

でもサーチさんがテイラーウッドさんの作品を重要視してない兆候は1997年の「Sensation」の時にすでに現れてたわ。

あのエキシビジョンでテイラーウッドさんの作品を5点出してたのに、

エキシビジョンに合わせてサーチギャラリーが出版した本「100: The Work That Changed British Art」(イギリスアートを変えた100作品)のどこにも

テイラーウッドさんの名前がなかってん。

ハーストさんも12点の作品をサーチさんから手放されて、ジョプリングさん経由で

買い戻したはるわ。

 

そんなハーストさんも2008年にジョプリングさんから離れてサザビーズで直接自分の作品223点を競売にかけたはんねん。アートディーラー無しでアーティスト自ら

自分の作品を直接売るっていうのも従来のギャラリーシステムにとっては

斬新やったわ。なんでそうしたんか言うたら「自分のキャリアにおける、ある特定の

時期を思い切って終わらしたかった」かららしいわ。

新しいアイデア、テーマ、スタイルの作品に移る前に、死体をお漬けもんにしたり

誰かの頭蓋骨をデコるといった一連の作品にきれいさっぱり区切りを

つけたかったんかもね。

けど、他にも理由はあったと思うで。

「プライマリー市場(Primary market)でアーテイストの作品がコレクターに

売られる価格より、セカンダリー市場(Secondary market)でコレクターが

その作品を売ったときに何倍もの大金になるっておかしいやん、プライマリー

市場にいる作品を作ったアーティストが稼げるようにしないとあかん」

と言ってたのは当時から結構有名な話やったしね。

  プライマリー市場 – 商業ギャラリーやエキシビジョンでアートディーラーを

  介して最初に作品を販売する市場のことやで。

  セカンダリー市場 – コレクターなどが所有する作品をオークションなどで

  二次販売する市場のことやで。

 

直接競売にかける話をジョプリングさんにしたら最初は気に入らん感じで

納得いかへん様子やったんやけど(そりゃそうやろ)、その後ジョプリングさんは

彼のホワイトキューブの顧客であるコレクター達に電話をかけてオークションに

出されるハーストさんの作品で何を購入すべきかアドバイスをし始めはったって

ハーストさんが言ったはったわ。

このオークションではジョプリングさんがハーストさんの多くの作品に入札したと

言われてて、彼が所有するハーストさんの作品の価値を高めるために暗に入札を

そそのかしてたって言われてんで。

要は入札額を吊り上げてそのアーテイストと作品の価値を上げたら、自分が所有している作品にもそれだけの価値がつくってことやし、将来売ったら大金になるって

ことやね。

ほんでもって、ホワイトキューブの顧客に代わって作品を落札したことも

わかってるねん。

あの時オークションに出されたハーストさんの多くの主要作品はロシア人の

バイヤーの手に渡って、ヴィクトル ピンチュク(Viktor Mykhailovych Pinchuk)

さんが購入したとも言われてるわ。彼はハーストさんの作品のコレクターで

ホワイトキューブの顧客の1人でありジョプリングさんとめっちゃ仲良しの

ウクライナの大富豪やねん。

 

このオークションの後、ハーストさんはジョプリングさんから距離を置くことに

なったんかと思ったら、反対やねん。

「これからもホワイトキューブとの関係は変わらへんで。これまでジェット

コースターのような浮き沈みの激しい出来事ばっかやったけど、いつも

ジョプリングさんと一緒に乗り越えてきた。ジョプリングさんだけが、自分の

新しいペインティング作品を手に入れることができる唯一の人やねん。」って当時、インタビューで答えたはったわ。

その次の年の2009年にはそれらの新しいペインティング作品を集めた

エキシビジョン「Nothing Matters」をホワイトキューブで開いたはるねん。

 

テイラーウッドさんが過去にジョプリングさんと結婚してた時の出来事を話したはるインタビューでハーストさんについてどう思ってたか言ったはんねんけど、

ジョプリングさんとハーストさんの関係がようわかるわ。

「私はいつもハーストさんのことをカミラ パーカー ボウルズと呼んでたわ。

彼は自分ら夫婦にとっていつも存在している3人目の人物やった。」

当時皇太子やったチャールズ3世がジョプリングさんで、ダイアナ妃が

テイラーウッドさん、皇太子の不倫相手やったパーカー ボウルズさんが

ハーストさんのような関係やったってことね。

 

今ではホワイトキューブは海外にも拠点があり、ニューヨーク、パリ、香港、韓国と幅広く大きく成長してんねん。

時間あったらホワイトキューブ覗いてみて。

White Cube

 

今回はめっちゃ長なったけど、最後まで読んでくれてありがとうね。