hellogoodbyeのブログ

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友達が死んだ。


好きだったか嫌いだったかわからない。

もっと色々話しておけばよかった。

自分が死んだらこんなに大勢の人が悲しんでくれるのだろうか。

それに嫉妬している自分。

悲しまれることに意味はあるのだろうか。

本来
体動かなくなる
それだけのことのはず。

動くものがとまっただけのはずなんだ。


悲しみに暮れる彼女。それに伴う嫉妬。

悲しみにくれる女。

しんみりしている男。

訳の分からない自分。

それに伴う罪悪感。

それに伴う攻撃性ハイドの姿。

中心的に動く彼女。

それに伴う嫉妬。

自分には出来ないことなのかという不安。

自分にもできるという自信。

集団から練出てくるプレッシャー。

それに勝てない自分。それに伴う防衛反応。

変な言葉ばかりがでてくる自分。

今後家族が死んだ時自分は平然といられるかという不安感。

自分の既存の哲学の甘さ。

身近な死への対処。

一々泣きわめきたくない自分。


もやもやもしたくない自分。

澄み渡ったように悟りを見つけなければならない。

なにを考えればいいのだろうか。

他人というのはつくづく面倒くさいものだ。

自分の死は案外気軽なものである。

生物的な事実、自分の心に生じている本物の感情、この事実同士をつなげれば見えてくるかもしれない。

立ち直るとはなんなのか。

いつかは死ぬものなのになぜいちいち悲しむのか。

悲しむ必要はあるのか。

自分は悲しんでいるのか。


心が冷たいという事実は存在している。

衝撃を受けているという事実も存在している。

悲しむわけではないにしろ彼のことをずっと考えてしまっている以上なにか打撃が加えられたことに間違いはない。


家族が死んだ時長男して自分がうまく立ち振る舞えるのかという不安。

立ち振る舞う必要性があるのかどうか。

世間体に逆らう必要があるのかどうか。

非常識と思われては行けないのだろうか。

主観的な事実と客観的な事実を全て鑑みて考えれば答えが見つかるはずだ。


もっと気に入ってていた生き物が死んだら自分はどう反応するのだろうか。想像してみる。

彼女が死んでもこのように冷静にいられるのだろうか。

泣き喚くのだろうか。

両親が死んだらどうなのだろうか。兄弟なら。

祖父母が逝った時はほとんど何も感じなかった。

ああ死んだんだ。それだけだったきがする。いややはり幾分もモヤモヤしていてただ虫が死んだのと同じように捉えることはできていなかったのかもしれない。

大事にしていた鳥は死んだ。
泣き喚いた。一晩中泣いていた。寂しくてたまらなかった中3の頃の話だ。
悲しくて悲しくてたまらなかった。埋めた。

見えている世界もずいぶん変わった。

今実家にいる鳥はあと数年で確実に死ぬ。
今度はどうかんじるのだろうか。

普段死について考えすぎているためにあまり反応しないのだろうか。
それともFPSゲームのせいだろうか。
それとも屠殺や手術や戦争の動画を見過ぎたために感覚が麻痺しているのだろうか。
麻痺している状態が正しいのだろうか。


ミラーニューロンの作用ですべて説明されうることなのだろうか。

流れ去っていくニュースの事故死のように感じることはできないのだろうか。

哲学とはなんのか。

一般的なひとは何を思っているのだろうか。ひたすらに悲しいという感情だけなのか。

それは美しいのか短絡的なのか人間的に温かいといえるのか。

自分の人生と他人の人生の鎖交は極めて複雑だ。

そのなかである基準をみつけただしさとはなんなのかをさがしていかなくてはならない。

もういちど考えまとめ直す必要がありそうだ。


本当に大事な部分を見つめなおし見の振る舞いを考え直す必要があるのかもしれない。


振る舞うべきが大事な部分ならば振る舞えばよし。
振る舞わないべきが大事な部分ならば振る舞わければよし。
どうでもいい部分でどうでもいいならより良い方がいいならば振る舞えばよし。

考えなくては