こんばんは。

先日、母の1周忌の法事を終えました。母の兄姉の皆さんが来て、食事もしました。姉は来ませんでした。私や父との関係を考えれば、仕方ないことだと思っています。


伯母は某宗教の熱心な信者で、母のためのミサも教えに反するからと言って食事会だけの参加であったほどです。そして食事会での伯母の話に、それで本当に良いのだろうかと思ってしまいました。


1年前、母の葬儀の後こんな話が親戚伝いに聞こえてきました。母の叔母の1人が、「あんな優しい良い姪を、こんなに早く連れて行くなんて、神様なんていないんだわ」と言ってキリスト教のカトリック教徒を辞めてしまったそうです。

先日の食事会で私の伯母はその話を引き合いに出しました。そして、伯母の信じる教えから見るとそんな発想はナンセンスだと。神様が母を連れて行ったわけじゃない、そんなこと考えるのはおかしいと言っていました。伯母の信じるものはよく知りません。何かを信じるのは自由だとも思います。でも、他の人の悲しみや憤りを、そんな風に嘲るのは嫌な気持ちになりました。

また、伯父と口論にもなっていました。伯父は「何かの教えを大切にするよりも、身近な家族を大切にすべきだ」と酔って力説していました。それは私も同じ考えだと思って聞いていました。すると伯母は「じゃあ他の人に大切な教えを広めてあげなくていいの?教えを大切にすれば自ずと幸せがやってくるのよ」と言って水掛け論になってしまいました。

信じて心が救われたことが何度もあったのかもしれません。他の人にも教えてあげたくなる気持ちも分からないではないです。でも、今回の伯母の話には、私はひとつも共感できませんでした。


それと、父は無神論者に近い考えの人です。だから、父も父で伯母の話を終始鼻で笑っていました。お互いの大切にしている考えを、尊重できないものかなと思ってしまいます。共感出来ないからと言って、その場で嘲笑ったり否定する言葉を投げかけたりしなくてもいいと思うのですが。


母がいなくなって、今ままで見えなかった部分が色々と見えてきた1年だったと思います。姉のこと、父のこと、伯母のこと、色々な人の見ないようにしてきた一面がありました。

その結果、決別したり、納得したり、曖昧なままにしたり。そうやって今出来ることを、可能な限り出来たと自分を認めたいです。


もう1年。時間はやっぱり、遺された人に優しいと私は思います。


ではではおやすみなさいませ。