ヤマシタトモコさんの「違国日記」という漫画を読み終えました。一気読みしました。今の私が読んだ感想を、残したくなりました。



主人公の1人である朝ちゃんの思考は、読みながらなぜか何度も休憩を挟みました。彼女の怒りに、寂しさに、渇望に、少しの浮上に、呑み込まれそうだったのかもしれません。彼女の亡くなった父母が、一体何を思い考え生きていたのか。朝ちゃんがそれを思考していくうちに、問いかけが変わっていきます。『誰なの?』と。一般論として、自分の両親が何者であったか、それを知る人、あるいは考える人は少ないように思います。母は母であり、父は父でしかない。『家族』とは、かたちに捕われて個々がどんな人間であるかを見落としがちなのかもしれません。朝ちゃんは、その見落としがちな真実を知りたがっているように描かれていました。そして読み手である私には、その姿があまりに拙く恐ろしく見えました。多くの人が家族の人間としてのかたちを見落とすのは、知りたくないからなのではないかと思います。だから、知ろうともがく朝ちゃんが恐ろしく思うのだと。そして作中の彼女は思春期真っ只中です。脆くて危うい、どんなかたちにも変えられる時期。そんな彼女が「両親が誰だったのか」、さらには「両親にあいされていたか」を考える描写は、休憩なしに読むのが恐かったと言わざるを得ません。両親の死の前はそんなことを疑ったこともなかったのだから、余計に。


そして2人目の主人公、槙夫さん。彼女は小説家で独りを心から愛する人ですが、姉(朝ちゃんの母)の葬式での醜悪な親戚のやり取りを見かねて、朝ちゃんを引き取ります。でも、槙夫さんは実の姉を憎んでいたことから、共に過ごす朝ちゃんをどうしても「自分の大切な人」とカテゴライズできないのです。生活面でも苦労はさせないし、程よい距離感で会話もします。必要なことはしてあげられるのに、一線を引く。正直で優しい、賢い人なのだと思いました。適当に愛するふりはいくらでも出来るし、「あなたが大切」という言葉も口を動かせばいいだけです。でも、槙夫さんはそれが出来ない程自分に正直で、騙される朝ちゃんの心情を想像出来て、何より朝ちゃんがそんな幻想に騙されるほど馬鹿で鈍感ではないと分かっている。読んでいて正直もどかしいです。月日が過ぎていく内に、槙夫さんの心は明らかに変化していくからです。だけど、頑なな彼女にやや呆れるものの共感もしてしまうのは、それが誰にでもある譲れない領域のひとつだからだと思います。


登場人物の誰もが、私の身に覚えのある悩みや思考を抱えています。「なりたい自分になりたい」「人と違う特別な存在になりたい」、「あいされたい」。疑問、不満、落胆。歳を重ねて達観したつもりになっても、忘れた頃にまた現れるそれらは、考える葦である私たちの永遠の課題ですね。誰も正解を知らない、不毛なテーマであっても。


最終話で、槙夫さんは朝ちゃんを大切だと思う気持ちを認めます。そしてそれを色々な表現を使った言葉で伝えるのですが、朝ちゃんに「なんで一言ただあたしをあいしてるって言えないんだよ…」と言われます。それに対する槙夫さんの答えが私は好きです。

「足りない。…足りないんだ。」


言葉は時に無力です。その言葉以上の思いを抱えているのに、伝える術がその一言しかない。いつだってそれがもどかしい。それなのに槙夫さんの「足りない」という言葉には「あいしてる」以上にその愛が詰まっていると分かるのは、これまでの月日を読み手として一緒に過ごしたからだと思っています。


電子書籍で読みましたが、紙媒体で購入したくなりました。全11巻。これを読んでくださった方も良ければ是非、読んでみてください。