信じる心の方へ
インドからナマスカーラ!
ナマスカーラっていうけど、インド人の挨拶は『ハロー』です。インド人同士でもそうです。ですが、外国人に対してだけ「ナマステ~」とか「ナマスカーラ」と使ってきます。そういう愛想の良いインド人は私にとっては要注意でしかありません(笑)
インドでの生活は、Instagram(ASAYA8)とfacebookでほぼ毎日アップしています。インドな生活はそちらをご覧ください。
~信じる力~
現在、サラスワティ先生のシャラで練習をしています。サラスワティ先生の元での練習は2度目となります。2005年よりここマイソールでの練習に通っています。毎年、インドへ戻り先生の元で練習を続けていくのは、経済的にも日本での生活を維持していくにも困難なことです。4回くらいまでのインドは以外と情熱と勢いで続けて来られるかもれません。でも、5回以上インドに来ている人は、大変落ち着き静かな印象を受けます。毎年変わらず練習へ訪れている先輩方に敬意を表したい。
私はグルジが亡くなり、インドへ戻る道標となる存在を見失いました。そして、インドでの練習するという事に、迷いが生まれました。迷いながらも来るたびに、後悔したことは一度もありません。でも、毎年、インドへ行くというのはそれなりにパワーがいる訳で。。。ここ数年はインドへの思いが消極的でした。「これで最後かな」という迷いを常に持っていました。そんな迷いの中での練習は、私に多くの痛みをもたらしました。それでも、練習は大きな学びと喜びをくれました。
特に前々回のインドでは、練習中に怪我をしてしまい、大きな不安と傷を負いました。その不安が拭い去れずに前回は1ヶ月という短い滞在でした。1ヶ月では身体と心の準備で終わり、新しいことは何も出来ません。楽しい練習でしたが、せっかくのインドでの練習が単なる里帰りのような感じになりました。
今回は2ヶ月。
絶好調ではない身体で、2ヶ月のインドでの修行。自分の深くにある不安、恐れ、怪我を負わされたという恨み。。。表面上では無くなったように思えた感情が練習と共に浮かび上がってきました。それと一緒に痛みが増してきました。痛みと感情がリンクしていると深く感じたのはサラスワティ先生が声をかけて下さった事がきっかけでした。先生に声をかけられただけで、私の痛みは不思議と軽減します。心一つで痛みが無くなるんです。単純バカかって自分が可笑しくなりました。しかし、信じる力、信仰の力のすごさを感じました。自分の心一つで世界が変わります。私は心からサラスワティ先生への感謝と尊敬が生まれました。
でも、それは同時に依存的な要素もあります。彼女が居てくれればできるが居なければ出来ないというのは何か違う。先生の態度や言動に自分が振り回されていては、穏やかな練習とはいえないのです。信仰にすがってはならない。
そう思うようになり、毎日の肉体の変化(柔軟性や痛み、アーサナの深さ)にあまり惑わされなくなりました。その時の自分のままただ練習をする。痛みはすぐには消えないですが、練習はどんな時も大切で尊いと感じます。
そして、私は時々ヘルニアや肩の怪我を言い訳にします。言葉の問題で伝えるのに手っ取り早いからと言うので、使ったりはしますが。それだけではなく、自分が練習をやって来なかった怠惰な自分への言い訳にしています。そういう風に自分が自分の不幸や痛み、傷を言い訳に使っているうちは、それらは自分に都合のいい必要な要素となります。そうしていると、自分自身でそれらを呼び寄せているんです。ヨガだけではなく人生においても、自分自身が不幸を呼び寄せているということです。
ですから、自分の今の痛みは自分自身が招いたものです。そう思えたら、心も体も少し軽くなりました。
私が招いたこの痛みを癒してくれるのもまたヨガの練習です。
単にアーサナの練習をするだけでは、体操です。
自分の内面に目を向けてこそのヨガです。
それが私にとってのアシュタンガヨガです。
そこに気付かせてくれるのは、すごいアーサナを取ることではなく、日々の練習です。練習の意味を履き違えてもいけません。同じアーサナを何度も練習したり、家に帰ってからもアーサナを何度も練習したり、まだ練習の許しを貰っていないアーサナをやってみたり。。。それは本当に我々が目指すところへ導いてくれますか?
意味のある行いでしょうか?
少なくとも私の目指すところへではありません。
私が望み信じる方へヨガの練習は導いてくれます。その信仰。。。つまり、心の向かう方向が違えば、返ってくるものも変わってきます。
心が全てを決めるのです。
私は傷つけてしまった自分の痛みと向き合い、自分を癒す練習をここで行っています。
