第三章 人間存在の本質

  Ⅰ生産的存在

 斎藤の「哲学初歩」によれば、ハイデッガーの考え方は次のようです。

ドイツの実存主義哲学者マルティン・ハイデッガーは、人間存在の本質を実存として捉え、そのまた本質を超越として捉えました。人間存在の本質としての超越とは被投性と企投性との統一としての意味をもったものなのです。被投性とは、そこに投げ出されているということです。いうなれば、人間とは根こそぎにされて何の拠り所もなく投げ出されてあるものなのです。また企投性とは、逆に、こちらから企て投げていくということです。いうなれば、人間というものは、ただ単に現在の状態のなかに閉じこもっているだけのものなのではなしに、その現在をのりこえて、いつもたえず、自己自身のあらたな存在の可能性を企て投げているものなのです。

 要するに人間とは、一面においていつもそこに投げ出されてあるものであると同時に、たえず自己自身の存在可能性を企て投げていくものなのです

 ハイデッガーはさらに、その超越ということの底を深く掘り下げていって、超越における被投性を成り立たしめているゆえんのものは、実は過去性ということであり、企投性のそれは未来性であり、その両者の統一のそれは現在性である、といったふうに思索を深めたということです。