森信三からの伝言
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森 信三(もり しんぞう) 1896 ~ 1992
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愛知県に生まれる。京都大学哲学科大学院を卒業。のち天王寺師範教諭十三年。
満州建国大学教授時代に終戦帰国。神戸大学教育学部教授をつとめ定年退官。
神戸海星女子大教授を勤続十六年。その間、教育講演行脚の旅は全国に及び、
感化教導の門下数千に及ぶ。著述は全集25巻・続全集8巻。
社団法人「実践人の家」創開者。
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注)■は偉人の言葉 ◇は筆者の解説とコメント
■ 人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に――。
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◇私たちはよく「縁」という言葉を使います。
縁起がよい、縁がある、これも何かのご縁で、
袖振り逢うも多生の縁、縁に始まり縁に終わる。
これだけよく使っている「縁」という言葉ですが、
「縁」というのはいったい何のでしょうか。
今回は「縁」を探ってみたいと思います。
仏教の教えに「・・・如是(にょぜ)因、如是縁、如是果、如是報・・・」
という教えがあります。
何かの原因は、必ず縁によって起こり、その結果を現し、
そしてそれが良くも悪くも報いとなって身にふりかかることになる。
こんな感じの意味でしょうか。
いかなる現象も必ず「縁」というものが引き金となって、
私たちの前にカタチを現すことになります。
新聞やテレビを賑わす、悲惨な事件や事故も、
ただ単に運が悪かったという言葉で済ませない、
何かの原因が必ず存在しています。
「縁」というと、どうも人間だけのものであるかの如く思いがちですが、
万象すべて「縁」が存在しています。
たとえば、地球をはるか高く大気圏を突き抜けると、
そこは暗黒の世界。光の存在しない世界です。
太陽に近づくにしたがって、
本当ならば地上よりも明るくなるはずです。
しかし、そこは夜の世界です。
ところが、太陽から来る光の波動が、
「大気圏」という「縁」によって光を生じます。
縁によって光を反射し、
太陽の光の波動は地上を照らすという結果を生み出したわけです。
しかし、その光をすべての人間が感知できるとはかぎりません。
大地に届いた光も、目の不自由な人には光を感知するという、
「縁」がないため感じることができません。
五感もすべて「縁」によって感知するものです。
あの料理はおいしいとか、いい香りだとか、柔らかい感触だとか、
それぞれの感覚はすべて「縁」が働いているからこそ感じることができます。
テレビやラジオ、携帯電話、パソコンこれらにも「縁」があります。
たとえば、放送局が発した電波は、あらゆるところに飛び交っていて、
その電波は確かに存在していますが、
通常の人はこれを五感で感覚することはできません。
それではどうすれば感知できるのかといえば、
その電波を受信する装置を使えばいいわけです。
電波の周波数と受信機の周波数があったとき、
五感で感覚できるカタチが現れてきます。
電波を受信する装置が「縁」になり、
五感で感覚できなかった電波がカタチとなったわけです。
このように、カタチは必ず「縁」によって感覚したことになります。
この「縁」というものを今一つ踏み込んで人間で考えてみましょう。
まず、私たちが生きているこの世の中には、
過去、現在、未来へとつらなる目に見えない波動で満ち満ちています。
この波動を業(ごう)といい、
現象界のすべては、業縁(ごうえん)より現れたもので、
業(ごう)というのは私たちの行い、動き、
動きとは波動であり、波動のバイブレーションです。
私たちが思ったり、言葉に出したりする瞬間に、
業という原因が創り出されています。
良い思いは良い業を、悪い思いは悪い業を、
善き言葉は善き業を、悪しき言葉は悪しき業を生み出します。
この時点では放送局が発した電波と同じで、
なんら感覚することのできない、カタチのないものですが、
それがある瞬間、波動のバイブレーションによってカタチを成します。
それが「縁」です。
「縁」に触れたときにカタチを顕(あら)わすことになります。
すべてカタチあるものは、波動が縁に触れてカタチを現したものです。
たとえば、おでこにタンコブができたとしましょう。
そのタンコブができる原因はすでに過去に存在しています。
しかし、このタンコブができるきっかけは、
何かの縁によって生まれます。
人に殴られたとか、小石につまずいて地面におでこをぶつっつけたとか、
頭上からものが落っこちてきておでこを直撃したとか、
こうした何かの縁によって起こります。
タンコブができるという電波は、過去の何らかの原因で、
すでに存在していますが、それをカタチとして体験するのは、
周波数が合い、縁という受信機が働いたときに生じることになります。
私たちが今ここに人間として生まれでたことも、
必ず過去になんらかの業という原因が存在し、
それが親という「縁」によって肉体を得ています。
ここまで説明すれば、ある程度ご理解いただけると思いますが、
私たちがこれから経験することはすでに存在しています。
業という電波(波動)はいつしか受信機(縁)によって、
カタチを現す瞬間を待っていることになります。
これは変えることはできません。
しかし、過去と現在は変えることができなくとも、
未来は変えることができます。
今から新たな波動をつくればいいわけです。
幸せになりたいなら、幸せの波動を、
裕福になりたいなら、裕福の波動を・・・
そして、よき「縁」に出逢えるように祈ることです。
平和の祈りの波動は、必ずよきご縁を引きつけます。
この厳粛なる法則を知っているのと知らぬでは、
人生に大きな雲泥の差が生まれてくるのは必定です。
こうした法則を知るのも一つの「縁」なのでしょうね。
日常茶飯事に使っている「縁」という言葉の意味を
少しはご理解いただけましたでしょうか。
今回、ご紹介した言葉、
「人間は一生のうち、逢うべき人には必ず逢える。
しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に――。」
これは厳粛なる法則なのですね。