ワンダー君は太陽

~遺伝子異常により生まれながらに見た目にハンデがあり、10歳にして27回も手術をしたオギーの等身大の生き方と、それに影響されて強く、立派な心を築きはじめた周囲の人たちの成長ドラマ。


とても面白かったです
映画としてキレイにまとまりすぎてる面はあるものの、子を持つ親なら序盤からもう泣きそうになる。
見た目という変えられないハンディキャップを背負うオギー。
そんな彼を最初は色眼鏡で見ていた同級生。

最後まで受け入れられなかった者も居る。
それもまた現実であり「子供には重すぎる」
という苛めの首謀者の母親の言葉もまた真実でもある。

けれどオギーの表情豊かな演技に、その人となりの魅力というものの深さを教えられた。



彼がしっかりと周りに愛されていったのは、苦労しながらも両親、そして姉の愛情があったからだと思う。


そしてオギー自身は自分はこういう人間だ、としっかりと発信できた。
お茶目で理科が好きで、優しさのある人間。

そんな彼を見ることが出来たものは彼に近づき、きちんとした人間関係を築けたのだろう。




僕がこの映画から感じたことのひとつは
彼の強さと
強く居られるための土台となった家族からの愛情。


それがなければオギーは前に進めなかっただろう。



そして彼をどうしても受け入れられない人の気持ちも分かる。
僕が受け入れられない側の人間だったから。


そしてこの映画では、彼の親友となりえた男の子と仲良くなりはじめたシーン。
そこで、僕は疑うことしかしなかった程に、10代の人間関係を構築出来なかった僕の弱さがあるんだな、と思った。


こういうイジメや排他で何が辛いと思う?


表立って虐める人
無視する人
見て見ぬふりする人


全員マシです。
そんなのマシです。


「俺は違うよ、友達だよ」

心からそう思って
本気で助けたくて近づいてくる人


そういう層がもっとも恐ろしいんです。
分かるかな?
分からないかな。

彼らは善意。

そして


近づいて彼らが助けたいのは


弱い僕

であり、それはつまり


下に見ている立場へ手を差し伸べてること。

完全に無意識に対象を格下と扱い
悪気も悪意もなく

友達だ、と仲良く帰った次の日には
心無い言葉や行動を向けられる。

彼らはそれに本人さえも気付かない。
自分こそは味方だ、と思っている。



友達なんていうものは
ずっと一緒になんて居なくていい


彼らは

僕と傍に居たがる人間は
僕を下に見ることが出来るから傍に居たい、と思うのだ。

男は

特に九州男子なんていうものは


無意識に人をバカにしたがる人種が多い。
バカにすることで自分の自我を保つ。


体が弱い
成長が遅い
口煩い
理屈ぽい
華奢で
ダサい


理由なんてなんでも良くて


こいつは下だ


そう認定した人に対して
無意識の差別という恐怖を

本当の意味で理解してる人は少ない。
しかもその差別をしてる人は
表立ってイジメたり
無視したりする人よりもタチが悪い。

善意だから。


この映画では
そうやって

無意識に格下と思ったオギーが
ある場面で活躍することを
どうしても許せないと感じた人物が居た。

それはオギー自身を見ていなかったからだ。
そんな人物に対して反旗を翻した者は、本当の意味でオギーの理解者として寄り添うことが出来た。


あの頃の自分には出来なかったこと。

もし今、当たり前に友人と思える人が居るなら、もう一度、その人の人となりを見つめてほしい。


そして、いつの間にか無意識にその人を傷付けることをしてないだろうか?と思い返してほしい。

僕はあの頃の僕をもう救えはしないけど、行動していればもしかしたら今も友達と呼べるような関係を誰かと築けたのかなぁ、なんて思う。


それはもう遅いので今からでも、偏見を持たず人を見ることを忘れず生きていきたい。

それは相手のためではなく、自分の生き方、として。


映画の感想より自分の人生の回想が長くなったが、僕が人間を怖く思う理由を改めて見つめ直すことができた。

それと同時にオギーを羨ましくも思う。
人は人との関係の中でしか自分を確認出来ないから、そういう関係を築けることを羨ましいと。

僕には出来なかったが、これだけのハンディキャップがあっても、感情というものは太陽のように周りを照らせるのだな、と感じた。


歳をとると涙腺も弱くなるし、やたらと感動しやすくもなる。

いい映画だった。