難しいね、難しい。

仕事ってなんだろうね。
すべてを犠牲にして、タスクをこなすことは、責任感があるとも言えるけれど
それを下にも同じ意識を持て、というのは、余りにも厳しい。
実際、仕事がちゃんとできる、てどういう定義だろうか?

客(エンドユーザ)目線で言えば
納期に品質を確保したものが届くこと

管理目線で言えば原価がオーバーしないこと

製造目線で言えば、納期と品質を遵守

それを達成するために
メンバーがどれほど酷使されようと
構わないのか?

たぶんきっとそんなことはないはず。

管理目線のところに
誰一人無理なく、オーバーワークすることなく
計画的に進められること

という目線が必要ではないだろうか?

そのためには、時として
例え約束してた納期があっても
交渉するということも必要だろうし、

品質を確保できないなら
リリースを延期する勇気も必要

そりゃ怒られるだろうし
信頼は一時的に低下するかもしれない

けれど、そのために
誰かが犠牲になっていいのだろうか?

いまの社会は弱者の犠牲に成り立ち過ぎてる。

部長が、課長がリーダーが
一担当者に降りていくまで
すべて実務者に全ての超過業務が降りていく。

それは違うだろう。

納期も大事
原価も大事

その上で、正しく無理のないスケジュールはもっと大事。

最初から破綻したスケジュールなら、
スケジュールが間違っているのか
受注した金額が足りないのか

いまいるメンバーで
正しいスケジュールを
引いたらこうなるよ、、


それを見せるのも
仕事をする、ということなのではないか?

あまりにも

こうあるべき
きちんとこなすべき

それこそが仕事だ、となりすぎてるのではないか?

ものが安くなった時代
ITも安売りの時代

仕事ができる、というのは
無理してでもこなすことなのか?

無理しないで進められる
体制や予算を確保するのも
仕事ではないか?

その手段が難しいのも事実
お金がないのも事実
客からお金を多くはとれない時代

原価を下げるために
人を減らし
皺寄せのように
無理することが
正しい仕事の在り方だろうか?

そうしなければ!
仕方がない

そんな言葉に囚われすぎてないだろうか?

見渡せばもっと多くの人がいて
それぞれの手を力を
少しずつ借りれば
その局面ややり方は
変えられるのではないか?

そんな風に思う。


誰もが頑張りすぎてる。


心を痛まない日はない。


どうしたらいいのだろうね。


少しずつ

少しずつ

変えていけたらいいな、と思う。

もっと垣根を越えて
もっと協力を繋いで

まだまだ出来ることはたくさんあるはずなんだ。

それを考えるのが難しいから
誰かが一人抱えて頑張る。

そんな構図は間違ってると
思う。


無理せず
正しく
稼げる。

正しく頑張れば
正しく稼げる

そんな状態を作ることこそ
仕事が出来る!ということだろう、


仕事ができる人間になりたい。


技術も能力も才能も知恵も人脈も人望も
自分には足りないものだらけで
嫌になる。