皆さん、おはようございます。今日もお忙しい中、ブログにお越しいただきましてありがとうございます。
 
今日、最初のお寺は四国霊場第49番の西林山三蔵院浄土寺。真言宗豊山派のお寺で行基作の釈迦如来が御本尊になります。西暦1922年・大正11年に再建された仁王門を潜ると正岡子規が詠んだ“霜月の空也は骨に生きにける”の歌の句碑が建っています。御存知かと思いますがこの歌に詠まれた空也とは、平安時代の高僧で町中を歩き回り布教活動を行った“市聖(いちひじり)”とも呼ばれた空也上人です。西暦957~961年の天徳年間に四国へ布教に訪れた際にこのお寺に3年間、滞在し四国に念仏思想を広めて行きました。村人たちは空也をしのびこの辺り一帯を空也谷と呼びました。空也上人自ら自身の立像があり国の重要文化財に指定されています。皆さんも教科書でご覧になった事があると思いますが、上人が南無阿弥陀仏とお唱えしたら1文字ずつが仏になり、彼の口から弥陀仏が吐き出されて表現されています。これも御存知かと思いますが、それと同じものが京都の六波羅蜜寺にもあります。
 
 
 

 
 

 
 

 
 

 

 
 

 
 

 
 

 
 

 

 

続きまして第50番・東山瑠璃光院繁多寺(はんたじ)。こちらも真言宗豊山派で山号や院号からもお気付きになった方もいらっしゃると思いますが行基菩薩の作と伝えられている薬師如来です。西暦749年から757年の天平勝宝年間に孝謙天皇の勅願所として行基が薬師如来を刻んで安置し開いたお寺で、西暦810年から824年の弘仁年間には弘法大師が巡錫中にこのお寺の籠り長逗留したとされます。お寺の名前も多くの説があり天皇から多くの幡を賜ったので幡多寺に由来するとか、この辺りの地名が畑寺なのでそれと関係するとか。最盛期には120の末寺も抱えていましたが、例によって例の如くと言うのか、このお寺も長宗我部氏の兵火に被害に遭いました。その後に西暦1681年から1684年の天和年間の頃に龍湖と言う高僧がいて徳川家との縁がきっかけとなり復興を果たす事が出来ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに続きましては熊野山虚空蔵院石手寺。ホームページがありますので詳しくはこちらをどうぞ。

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余りにも多くの山道や階段で、ただでさえボ~~~ッとしている頭が余計にボ~~~~ッとしてお詣りをしていました(苦笑)

 

今日も皆さんが心穏やかにお元気でお過ごしになれますように。