「ぶらり途中下車の旅!今回の旅人は・・・」
(滝口順平さんのナレーション風で)
なんと、ほんものの・・・
ミスターぶらり!
今日は、俳優でリポーターの阿藤 快さんとお仕事。
JR豊肥本線・中判田駅で途中下車して、町をブラブラ。
ミスターぶらりの腕の見せ所。
今回の旅の目的は・・・
大分市戸次の伝統料理・鮑腸(ほうちょう)をいただく。
うどんは、讃岐うどんよりコシがあり、出汁はカボスが入っていて
めちゃくちゃ旨い!
阿藤さんもご満悦だった。
気さくに写真撮影に応える阿藤さん。
実は、自分と阿藤さんは15年ぶりの再会である。
阿藤さんと僕の出会いは・・・
この番組!
(関東ローカルのみ放送)
残念ながら九州では放送していないが、「ぶらり途中下車の旅」が
阿藤さんとの出会いである。
「あらあら、阿藤さん」とか「阿藤さん、お味の方は?」など軽妙な話し方で有名な
滝口順平さんがナレーションを担当している、いまや伝説的な番組である。
あのコージー冨田が滝口さんのモノマネでブレークした。
「東京エスケープ」
1993年、僕は28歳で離婚したばかりで、なおかつ離婚と同時にある会社を辞めていた。
離婚届に書き殴る様にサインをしたのをいまでも憶えている。
そんな時、「ぶらり途中下車の旅」という番組と出会った。
最初、AD(アシスタントディレクター)として番組に従事していた。
その頃の自分は、映画界からテレビドラマ、
ドラマをやっていた会社を辞めたものだから、仕事がなくて、人の紹介で
この番組についた。
はっきり言って、もっともやる気の無いADだったと思う。
「なんでいまさら情報番組のADなんかやっているんだろう?そもそも東京に何をしに来たんだ?
映画監督になりたくきたのではないのか?」
自問自答の日々だった。
人一倍仕事をしないAD、しかし、演出的なことには、いっぱしのことを言う。
キー局のADというのは、ディレクターの無理難題を一身に引き受けなければならい
要となる仕事である。
そんな立場であるのに、一切仕事をしなかった。
まったくやる気がでなかった。
一度、自分のやるきの無さから取材先に不快な気持ちを与えてしまい、
CP(チーフプロデューサー)と菓子折りもって謝罪に行ったことがある。
うざくなったプロデューサーが・・・
「あいつは、ADとしては使いものにならないから、ディレクターにさせろ」
という鶴の一声で、ディレクターに昇進した。
「次の回は、おまえがディレクターやれ」と言われたとき、
ついにこの時が来た!と、心が踊った。
わずか1年で番組ディレクター、自分自身も初めての挑戦だった。
そんな時、阿藤さんが、「ぶらり途中下車の旅」に初参加してきた。
阿藤さんは初登場、僕は番組デビュー!
という記念すべき1本である。
阿藤さんとの初仕事は・・・
「ぶらり途中下車の旅・都電荒川線」である。
東京で唯一の路面電車で、早稲田から三ノ輪を結ぶ。
地下鉄の発達により、路面電車は衰退していった。
昭和の遺物として、いまでも人気の高い電車である。
この電車に乗って、阿藤さんがブラブラ人と出会う。
このとき自分が持てる力をすべて出し切ったと思う。
ADのとき「自分がディレクターだったら、こうやる!」という引き出しだけは、
作っていた。
その引き出しをすべて使った。
完成した番組を見終わったCPいわく、
「この番組から数々の新人ディレクターを輩出しているが、
その中でも、一番面白い」
と、言わせた一本である。
それから、ディレクターとしての道を歩み始める。
15年ぶりに再会した阿藤さんは、そのときの番組の内容を良く憶えていた。
「マジックショーをやっていた親父を取材したね。あの親父亡くなったんだよ」とか
「魚屋と定食屋合体した店行ったなぁ」
鮮明に憶えていた。
それを聞いていると、なんか妙に懐かしくなって涙が溢れそうになった。
その後、阿藤さんは役者としてより、ミスターぶらりと言われるほど、
旅番組の仕事量が増えていく。
30歳の自分にとっては、物足りなく、なんかもっと違う番組をやりたいという思いから
「ぶらり途中下車の旅」をやめた。
もっともっといろんな番組のディレクターを経験したいという思いが日に日に強くなり、
結局降板した。
それから、違うテイストの情報番組を行った。
もしあのまま「ぶらり~」をやっていたら、いまごろまだ東京にいただろう。
しかし、番組を降板したことに一遍の悔いはない。
阿藤さんにとっても、自分にとっても、人生の岐路となった作品であることは
間違いない。
今度は、いつ会えるか?5年後か?10年後か?
あるいは、二度と会えない・・・かも
人との出会いは素晴らしい!
お疲れ様でした!














