SALA

SALA

気づきや受け取ったことを。

他人に意識を向ける、助ける

人に対してなにかをすることで

自分のことから逃げ続けていた自分を知った。

 

 

ほんとうはどうしたいのか?

いまなにをしたいのか?

なにをしたくないのか?

なにを感じているのか?

なにが好きなのか?嫌いなのか?

なにが喜びなのか?

 

 

他人ありきで

役に立つことで

誰かの機嫌をとることで

自分を差し置いて誰かのために、とすることで

存在価値を測っていたようなわたしにとって

 

何もしないこと、何の役にも立っていないこと

相手の機嫌を損ねること

相手の意図、期待がわかっていながらそれに応えないこと

静かに傍観すること

無価値で無能な自分と向き合うこと

心や身体がNoと言っていることにYesと言わないこと


 

こわさを伴うようなことでもあった。

 

 

 

 

 

「いい人」 頑張るのをやめる

自分に意識を向けること

エネルギーの向け先を見極めること

 

いい人、人間とは というような常識、固定概念を剥がしていく。

古い自分として生きのびようとするのをやめる。

生き残るための、安全だと思って被ってきた鎧を脱いでいくこと。

その鎧がなくても安全だと少しずつ体感していくこと。

 

 

歩みは遅くても時間はかかっていても

昔の自分に戻りたいとは思わない。

 

 

健全な境界線を設定することで

「急にどうしたの?さめたの?」

そんな風に言われることもあった。

離れていく人、壊れていく関係もあった。

 

 

罪悪感や無価値感は、

古い自分が消えていくときの抵抗、叫びのようなものでだんだん小さくなる。

古い自分が消えていく中で感じる不快感を見届けていくこと。

無様で惨めでどうしようもないような感じでも、そんな自分とも居続けること。

これを直視するのが嫌でなにかでごまかしてきたのだけど、

逃げたら逃げただけ自分のことを嫌いになる。

自分から遠ざかり信じられなくなる。

ずっとなにかに怯えることになる。

 

 

 

 

 

自分に正直にいるために他人をがっかりさせる、嫌われる勇気があるか

大切だと思っている人が自分に対して怒ったりがっかりしたとしても

自分のスタンスを保てるか

 

そんな揺さぶりの中で

人に嫌われても好かれても

誰かがいてもいなくても

自分の価値みたいなものは変わらないんだと思うようになった。

 

 

波風をたてることは危険、良くない

自分を主張することはわがまま

自分のニーズはほかの誰かのものほど重要じゃない

 

長年の思い込みを崩壊させるようなことがたくさんあったおかげで

 

周りの人に向けてきた思いやりやニーズを

自分自身に向けられるようになった。

 

 

繊細さや感じる能力が悪いわけじゃない

それを外ではなく自分に向けること

危険を察知するためではなく、

心地良さや喜びを追求するために使うこと

 

 

 

 

 

 

1人になって演じることも、喜ばせることもない

静けさの中で自分という輪郭が見えるようになる。

 

暗さや静けさやはこわいものではなく

祝福なんだと知る

 

自分という存在がどんなに尊くて希少でかけがえのない存在なのかを垣間見る

 

 

なにかをしてあげることよりも

その光を信じること

灯台のようにただあること

それが最大の贈り物になることもある

 

なにかを言う、ことばよりも

沈黙 が大きなメッセージとなることもある

 

そんなことを感じるようになった。

 

 

 

 

 

 

自分が自分を放棄していた ことを知ってから

感情や欲、願いのようなものがカラフルに感じ、

以前より血が通っていて?というか

熱を帯びて流れているような感じがする。

 

そんな感覚になってから

不幸よりも幸せになることを

失敗よりも成功することを

実は恐れている自分がいるんだと気づいた。

 

 

自分が自分といたら

自分のことを説明したり

なにかを弁明したりする必要がないんだと感じ、

今まではなにかを証明したり外側からなにかを集めるのに

一生懸命だったんだなって気づいた。

 

 

自分 自分 自分

今回はちょっと笑っちゃうぐらいその単語連発な記事になってますよだれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前からちょっと気になっていた浮指。

 

シリコンみたいなぷにぷにした装具のようなものを買って

つけてみたことはあったけど、やめてしまって。

 

 

YouTubeで偶然浮指の動画を発見して

気づいたこと、感じていること。

 

 

座っているときも、立っているときも

足裏に意識を向けていると、

頭の中がさーっと静かになっていって

瞑想したときのようなクリアな感じになっていく。

 

治そう!という思いより軽い好奇心から始めたのだけど、

毎日1本ずつ10本の足指をケアしていたら

自然と生活の中で足裏に意識が向くようになって

そんな状態で立っていると

 

10本の足の指に支えられて立っているな~

いまこの足で立っている、ここにいる

 

ことばにすると変な感じだけど、

身体が自分を支えてくれている感覚

身体から愛を受け取っている、身体からの愛を感じている

そんなことを感じる瞬間が多くなった。

10本の足指からも愛を感じるような。

足指に意識を向けたことはあんまりなかったけど、

愛しいなぁって感じるような。

 

 

こういう感覚がなんだか心地よく

なんだかんだ続けているという感じで

正直浮指がどうこうというより

こういう発見があったことのほうが意外だけどちょっとうれしい感じ。

 

 

 

 

 

 

 

 

落ち込んでいる

悩んでいる

傷ついている

 

そんな風に思っていたとしても、

どんな物事も、人も、いかなるものも

悩ませることはできない、傷つけることはできない。

 

そんな風に思っている裏側に、奥の方に

まったくなにひとつ傷なんかついていない自分もいる。

 

過去の記憶を持ち出したりほじくり返したり

意識を過去、未来に行ったり来たりすることで

自分から悩みにいっている

自分で自分を傷つけている

エネルギーの消耗をしている だけなんだなぁ

って気づいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

直感でとっているフラワーエッセンスが教えてくれたこと

 

境界線や人との距離感

与えることと受け取ることのバランス

 

条件付きの愛情を得るために

人から悪く思われないために

 

このままの自分では価値がない

潜在的なそんな恐れから

なにかをやりすぎてしまったり頑張ることをする。

 

わたし がお留守、不在の状態で生きていたんだなぁ

外側のなにかに明け渡してしまって。

 

 

愛は得るものじゃない

あるものなんだ

 

 

 

 

 

 

ずっと時が止まっていたんじゃないか?って思うぐらい

いったい誰の人生を生きていたんだろう?

わたし今までどこにいたんだろう?

というような

ことばにしがたい感じだけれど、

なにかが蘇ってくるようなそんな感覚。

 

 

ドMともいえるほどのひとり自虐劇場

 

気づいてもやめられなかったけど

どんだけ~~ってIKKO風に笑い飛ばせるようになってきたのは

小さくても意外と大きな変化かもしれないハート

 

 

 https://youtu.be/c48NIh6mNYg?si=dZ7HwZWDKoRIZdcr

浮き指の動画です。


感じることと考えることって同時にできないんだなぁって

身体を使いながら体感でわかることが多くて

おもしろいなぁって感じてます。

 

 

なにかを得たから

なにかがあったから幸せ

 

なにかを失ったから

なにかによって不幸せ

 

 

もっと大きななにか。

普遍的というのか、確固とした内なるもの。

 

 

そういう流れに気づくように促されている。

 

 

そうだと思えないことだったとしても、

すべては味方でありすべてはわたしだったんだ

 

敵も味方もなくー

 

わたしにとって最善のことが起こっている、いた。

 

 

 

 

 

 

なにかができる、できないとか関係なく、

いつも愛されている。

 

 

つじつまがあっていないように見えても

この先にもっといいもの、ことがあるはずだと思っても

完璧じゃないようにみえても

 

いますでに最善で完璧

 

そんなことを感じた瞬間

どれだけ前のめりで力が入っているのかに気づく。

 

 

 

 

 

 

9月からの流れの中で気づいたこと

 

 

当たり前にやっているようなこと、できること

それは自分にとって才能だと気づかないこともある。

 

才能は、周囲が教えてくれることもある。

 

だからこそ、そんな気づきの機会があったら

素直にそれを才能として自分で受け入れることが大切で、

そうすることでそれは才能として開花、育っていって、

豊かさにも繋がっていく可能性がある。

 

 

自分の中にある可能性を感じること

みること

 

 

こういうことに関して、

素直じゃなく心を開いていなかったわたしだけど、

自分自身で受け入れられるように

何度もいろんな出来事や人が教えてくれていた。

それは自分以外のなにかや他人に見えていたとしても、

ぜんぶわたしがわたしに教えていたことだったんだ、と。

 

 

 

 

 

 

巡り合いのご縁の中ではじまった小さなイベント出店。

 

喜びでつくったものやサービスにお金をいただく。

体験の積み重ねから

お金って愛でもあり、喜びでもあるんだな

とそんなことを感じるようになりました。対面ということもありリアルに。

 

 

ネットショップでも創作物を公開、販売はじめましたオッドアイ猫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無性に土に触れたくなって、

農業体験の仕事に行ったときに感じたこと。

 


長靴履いてるけど、

長靴ごしに伝わる土の感触がきもちい。

なんなんだろう、この安心感みたいなものは

という感覚で始まった初めての体験。

 

 

遠くから金木犀の香りがしてきて

太陽さんさんの青空快晴の中

黙々と苗を植えたり、そのほか作業したり。

 

 

時間のない世界

 

 

そんな感覚を感じました。

 

 

苗や草、虫たちは待ったなしだし、

自然の恩恵を受けながらも、

自然界の厳しさみたいなものとも共存しているし、

想像していた以上に人の手と労力がかかっていることを知り、

農家の方たちすごいなぁと思うばかり。

 

 

つねに今ここ、足腰も体力も強くなる。

だから農家の方は元気な人が多いのかな~

 

 

 

 

 

 

汗水たらして

土や泥にまみれて汚れながらなにかする。

 

大人になってからそんな体験をしなくなっていたけど、

なんかいいなぁって。

 

 

特別大きなことはしていない。

素朴で単純でただ目の前の苗や植物、土と触れ合っていただけだけど、

そんな時間がとても贅沢で豊かな瞬間だなぁって。

 

 

ことばで表現しにくいけれど、

生き方、あり方、人生

感覚的に思うことがたくさんありました。

 

 

農園の方が教えてくれたにんじんの葉っぱ。

塩、コショウ、バルサミコ酢で。

無農薬ということもあってとてもおいしかったですにっこり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終わる、減っていくものもあれば、

入ってくる、予想外に新しく始まるものもある。

 

9月はそんなちょっとめまぐるしい月でした。

 

新しい体験にちょっとしたこわさ、

ビビり、大丈夫かな?というような不安もあったり、

重苦しい癖、パターン、持っているものも

強烈にみたような感じでした。

 

 

最近体感で感じていること。

 

すべてが循環している。

 

お金も、人も、物も、ご縁も。

 

ことばにすると当たり前のことかもしれないけれど、
今までとなんだか感覚が違う。
今まではお金を払うと手元からなくなってしまうような
そんな感覚があった。


支払ったお金は、別の何かにかたちを変えて
必ず同時になにかを得ている。

 

 

循環しているということを感じるようになって、
今まで一度たりとも損をしたことも
なにかを失うということもなかったんだとも思う。


たとえ後悔するようなお金の使い方をした
自己犠牲だったと思っていたとしても。





 

人や誰かを喜ばせるために というより
自分自身が放出したものが返ってくる、受け取っているのであれば、
大切な自分のために なにを放出するのか を厳選したいなって思う。


大きく広く遠くになにかを届ける、放つというよりも、
意外と狭く小さいけれど、

どこか広いそんな世界で完結しているのかもしれないなって思う。

 

 

 

散歩中にゴールデンに会って、

ものすごい視線と鼻息と前足出してる感じがかわいくて

めったに触れ合えないゴールデンと触れ合えたのが

9月最後のうれしい出来事ニコニコ