芸能界はとても疎い私ですが、タマタマピンクちゃんが「山形交響楽団って有名なの?」と聞いてきたので、調べた過程で、旧車マニアとしても知られる村川透さんを思い出し、村川さんを訪れた方のブログが面白いので貼り付け紹介です。

 荒井幸博TODAY:村川透監督の恋人に会いに。 - livedoor Blog(ブログ)

 今から17年前に訪れた時の内容です。主治医からもベンツについては話しを聞いていましたが、ブログに出る初めの自動車整備工場は私が22年前まで利用していた工場です。確かにこの車は学生時代ありました。

 

 この車が整備工場の入り口脇の鉄塔に上がっていました。その工場の奥の鈑金整備場に村川さんの愛車があり、他にフェアレデーSP310、ダットラ320ともう一台何かがありましたが、失念。

 社長の話ではあの当時は鈑金修理をしている話でした。鈑金が8割方完成し、当時は内装をやっていた筈で、シートが骨組みだった記憶があります。

 1月のあなたはスペシャルランクでした! 内装のレストアその2 | 髙村円淨のブログ (ameblo.jp)

 この記事が少し関係があり、シートや内装の外注先で山形市内の大手内装屋に発注し、一部下請けでこの工場から仕事を請け負っていたのが、スペシャルランクで紹介した業者がやっていました。(後年何気に聞いています)荒川さんのブログでは15年間何もしていない書き方でありましたが、恐らく鈑金塗装をやっていたのではないか?と思うのです。又このミッションの話はとても有名で、村川さんの他の愛車初代シルビアとブルーバードの整備を主治医が長年請け負っていますが、何かの時に「裁判一歩手前まで行った」話を聞いています。この時の話は「デソトがある工場でミッションに問題があると原因を見つけたが、修理が出来なかった。2年放置された同じ山形市内の工場で修理を完結した。」と聞きましたが、ご実家近くの工場で3年がかりだったとは初耳です。

 

 計算すると話は殆どが主治医から聞いた話と、私の記憶が合致しますが、デソトがあった工場はベンツが出た時点で工場長が社長代行をして、悪戦苦闘していた時期で、その時点で社長は亡くなりました。何時だったかの記事で工場長を悪く書きましたが、実は「社長の息子が後継者に相応しくなく、工場長も60歳の定年で辞めるつもりで焦りを感じ、荒くなった時期。」でした。出入りしていた部品屋の話では、この息子さんは現場に出た姿をまず見なかった。と証言しています。

 さらに最近この業者の話では、デソトがある工場は整備工場と云うよりは鈑金工場で、旧山形陸運支局近くの相生町の工場が本社で整備工場がそこだ。と話していました。そこの工場長は更に腕が良かったので、相生町に出せば間違いなかったと思います。旧車廃車スクラップは工場長が周りを綺麗にしたかったのかな?

 

 いずれにせよ、社長が亡くなり工場長が引退となれば、腕のいい整備士は居らずミッション修理は頓挫してしまう事でしょう。工場長がいなくなると、社長の息子が年長者となり若い衆を引っ張る事となりますが、現場に出ないとなれば見た事もない旧車は何も出来ません。

 この車も先程の工場では入念に整備を受けました。中古購入してすぐから診て貰っていました。

 

 

 

 

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