このカタログのウリは、仕事に週末のレジャーにバリバリ使えます。だと思います。

 戦後復興、東京五輪で見事に復興した日本を世界にPRし途上国から先進国に仲間入りしようと足掻いていた時代を象徴していると思います。

 特にライトバンは乗用車としての側面を持っていました。マスターラインで一番売れたのがこのライトバンでしょう。実際自家用乗用車として購入する事例は多く、主に羽振りの良い商店主が多かった筈。

 繊維業界でしょうか?テーラーの様に感じました。

 私が時々ブログに出すクラウンRS41を入手する事が出来たスポンサーは、昭和50年代後半まで中央区日本橋室町でソコソコの規模のテーラーをやり、その傍ら株を盛んにやっていたのでした。他にも投資事業もしていたと思います。その時何処かの時期に我が家で何か援助したとかで、そのお礼で涙目RS41が我が家にやって来ました。なのでバンチャ(曾お婆ちゃん)は大層不機嫌で、息子夫婦であるお爺ちゃん、お婆ちゃんに厳しく云い「あじぎたな物、直ぐにⅯさんさ返して来いや、おらえでは要らねぇ~。」でした。同時に暫くして「普段は隠しておげ、近所衆がら何やれっか判がんねぇ~。」も口癖でした。

従業員もそれ相応の数が居た筈で、昭和35年か36年頃の話で、越路吹雪さんとマネージャーの岩谷時子さんが来店した際、当家の従業員が帰りのタクシー手配の際「越路さん、中型になさいますか?」と云うと暫く考えて「小型でお願いしますわ。」と云われ、従業員と岩谷さんが必死に商品をタクシーに詰め込んだ話が残っています。当時の中型は初乗り80円、小型は70円、ルノーは60円でした。

 昭和53年は私が室町の店で遊んでいたら、越路さんが「マァ~可愛いらしい子番頭さんねぇ~。」とおっしゃった事が忘れられません。煙草と香水、おしろいの匂いが混じった方でしたね。もう私は50歳を過ぎて一番番頭に見えてもおかしくなくなりました(笑)

 これは電気店でしょうか、バリバリと働いていますね。

当時休日は主に日曜日。商店主なり会社から従業員らが社用車を借りて行楽地へ行く事は珍しくなないです。

関山旧道で昭和38年9月22日に発生した一家5人転落死亡事故もやはり父親(当時50歳)が勤務する仙台市内の亀井商店の社用車を息子(当時22歳)が運転して転落事故を起こしました。当時河北新報で大きく報じられ、後に六条家となって仙台市内に関山怪談の一つとなり残りました。

商店主一家のシーンでしょうか?

会社のサークルのボーリング?

 私これの中毒者でした(笑)CM撮影時緊張しまくり、これを飲んでスカッ!と

 あの当時の健康雑誌で「今の子供たちは将来どうなる物か?不安であり、判らない。」とあり一応元中毒者は持病はある物の暫く死にそうもないです。

遊園地。やはりマスターラインらしいですね。大衆車ベースは高原へジュースを持ち出し、川の水で冷やして弁当を食べるが一般的でした。それでも十分楽しめるレジャーでした。

 

 私も都内の遊園地に何度か足を運んでいます。東京タワーは昭和53年に行きまして、夜景の美しさを記憶しています。

ピックアップは

 あくまでトラックの域。余りレジャーに使用はなかった。

トヨグライドの紹介。この頃は既にピックアップにもトヨグライド選択出来ましたが、涙目の頃はライトバンのみ(多分注文すればピックアップも出来たと思う)事実RS20系の頃はライトバンだけの設定で、RS21は選択出来ませんでした。

無論このエンジンだけの紹介。

フレームはセダンとは後ろ側が違います。

 Wピックのシート。2ドアなので、この様になります。

ライトバンやシングルピックは此方。やはりオーナースペシャルがベースですね。

高度経済成長期を遮二無二走ったであろうマスターラインは当時の日本人の勤勉さの象徴の一つです。

これはタマタマどちらかのカタログに挟まっていました。サービスで配った物でしょう。

何じゃ?切れた物?

いいえ、こうなる仕組み。面白いね。

 ピックアップの紹介はここのみ。同時に未だカラー写真カタログが高かった時代の名残ですね。

 

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