大切にしていた皿やカップに限って割ってしまったりすることがある。それが形見の品や大切な人からの贈り物だったりすると落ち込みは殊更だ。捨てることもできず、家の片隅の棚にひっそりとしまいこまれていたりする。普段は忘れていても、ふとしたきっかけで棚の片隅にその器を見つけると、心の底が何となく裏ぶれた気分になり、また棚の扉を閉めて記憶の沼の底に沈める…。

 

そんなある時、金継ぎ作家さんとご縁ができた。金継ぎにするほど高価な器でもないけれど捨てられない器があると話したところ、「その器の格が上がりますよ」とのこと。何だかほおっと心に暖かな灯がともったような気になり、「金継ぎ習います」宣言をしてしまった。勢いにまかせて始めたものの、まぁ、それからが大変なこと。「お湯を注げば3分で出来上がり」というわけにはいかないのだ。

何度も何度も用材を塗り平らにし乾かす…未来永劫続く輪廻の輪の中に囚われてしまったのか…ああ…これがシジフォスの苦悩というものか…。

そんな煩悩の中で輪廻を繰り返すこと数ヶ月、ようやく解脱への道が見出される…

ついに金粉を蒔く日が来たのだ。

修復された部分に金粉を蒔く。丁寧に真綿で擦り仕上げていく…

 

長い間、葬られもせず生かされもしてこなかった器に明るい黄金の火がともったようになった。

「器の格が上がる」とはこういうことなのか!

欠ける前よりも金継ぎをした方がはるかに素敵な器になったのだ。

単に物理的に器が修復されて綺麗になったということだけではない。その器に込められた思いや歴史、心までもが美しく蘇ってきたのだ。本当に心あらわれる体験だった。