1975年11月にリリースの4thアルバム〔A Night at the Opera〕、B面2曲目に《Love of My Life》は収録されています。

1979年の、Live Killers Tourでフレディと観客で歌ったのが好評で、そのバージョンは後にシングルカットされました。


ライヴで演奏される12弦ギターでの弾き語りアレンジの方が有名になり、YouTubeのQUEEN公式も弾き語りver.をオフィシャルにしていますが、アルバムはもともと違うアレンジです。

イントロのハープはブライアンによるもの。ハープといってもブルースハープではなく、オーケストラにあるアレです。神話の女神がポロロンポロロン弾くアレ。本当になんでもできる人たちですね。





かつてフレディの恋人だったメアリー・オースティンに向けた曲、と言われています。が、私はその説に懐疑的です。


Love of my life you've hurt me
You've broken my heart and now you leave me

――僕を傷付ける、運命の恋人
      僕の心を粉々にして
     そして僕のもとから去って行く


この曲の一人称は、果たして「僕」なのでしょうか。





フレディがメアリーにプロポーズしたのは1973年、自身のセクシャリティを伝えたのは1976年、と言われています。

メアリーとの恋愛関係は、その1976年に終わったとされていますが、プロポーズの翌年にはすでにフレディは結婚に興味を失っていて、二人の間に結婚の話が出ることはだんだんなくなっていったとのこと。メアリーと暮らしながらも、フレディの興味は男性にありました。


どちらから別れを切り出したのか。


フレディは自身のセクシャリティを伝え、メアリーは「あなた、ゲイよ」と答えました。このやりとりを別れ話とするならそうなのでしょうけれど、これだと別れようとしたのはどちらなのか、はっきりしない気がしています。二人の間の極々プライベートな部分なので、はっきりしなくてもいいのですが。

あくまでも個人的な見解として、ですが。プロポーズはしたものの結婚への意欲は皆無に等しく、新しい恋の相手は男性ばかり。もうダメだメアリーへは隠しきれない、けれど恋人に恋愛対象ではないと告げられるダメージは、性別に関係なく容易に想像がつく。であれば、メアリー(女性)も対象から外れていないことを暗に含めた、(限りなくゲイに近い)バイセクシャルであると、そう伝えることが、フレディの最後の優しさだったのではないでしょうか。

「あなた、ゲイよ」と呼応するように切り返すことで、メアリーの女性としての矜持は辛うじて保たれます。穿った見方をすれば、このやりとりだって本当はどうだったのか、誰にも知る由がないのですが。恋人にセンセーショナルなセクシャリティを告白されて、咄嗟にバイセクシャルじゃなくてゲイだよねと、例え以前より何かを薄々察していたとしても、切り返せるものなのかどうか、些か疑問です。


フレディから別れを切り出したにも関わらず、メアリーに固執する。映画でのフレディはそんな描かれ方をしていました。

実際はその逆で、フレディとの別れを受け入れられないメアリーの方が、フレディとの関係を断ち切ることができずにしがみついていた、という話も聞きます。

私には後者がしっくりきます。別れてなお家族親友のような付き合いができることもあるとは思いますが、フレディとメアリーの間では、そこに高潔なものは感じられないのです。

結婚寸前の恋人をよりによって他の女性ではなく男性に奪われる。ショックと同時に屈辱も少なからずあったと想像できます。その慰謝料的な対価に、フレディのセクシャリティの隠れ蓑として公のステディを演じて富を得る。フレディも、プロポーズまでしておいて実は異性より同性が好きでしたごめんなさい、という負い目から、離れていかないメアリーを邪険に扱うこともできず、そして当時の時勢から異性のパートナーがいる(ように世間に見える)方が都合がいい――。

言い方はともかく、そんな見方もあるようです。お金が繋ぎ止めた関係、とまでは言い過ぎかもしれませんが、ツアーに出てもホテルの部屋は別々だったりしていますし、ビジネスライクに秘書的な立ち回りができれば、メアリーももう少し気持ちが楽だっただろうに、とは思います。実際、後の恋人であるバーバラ・バレンティン(前に書いた、《It's A Hard Life》のPVに出演しているフレディの足を踏んで高笑いしているあの人)には、フレディはメアリーへの負い目をよくこぼしていたようですし。


そして何より、メアリーはフレディではない男性との間にこどもが二人います。こどもが欲しいとフレディに言ったら断られたメアリーですし、子を産みたいのは本能なのでわかります。でも、でもね。だったらフレディの元からは去った方がよかったのではと、私は思うのです。

例えば映画のとおり、フレディがメアリーに固執していたとして。そんな相手の前に、他の人との間にできた子を身籠った姿で現れる。元彼に今のボーイフレンドを紹介する。映画のようにフレディが危機的状況にあったとしても、頼れる人がメアリーしかいないと言われていても、地域性や宗教性時代性その他諸々を鑑みても、あり得ないとしか感想がないのだけれど、これは私の考え方がおかしいのか。

メアリーがフレディから離れられなかった説が有力だとしたら、フレディにもボーイフレンドにも失礼じゃないですか。ただただ、不躾な女ですよ。

どっちみちメアリーのやることは理解できない。誰に撮らせて誰が流したのか、こどもをフレディに会わせているビデオがYouTubeに出ていますが、そういうことをする感覚は私の理解を超えています。お墓の場所を秘密に、とはフレディの遺言ですが、フレディの両親にすら教えないのはどうなんだろう。別に私が理解できなくても結構だろうし、フレディとメアリーの間にしかわからないことはたくさんあるのだろうけれど、少なくとも私から見ると、世間一般に出回っているメアリーの聖母感はゼロです。


愛されたがりのフレディをうまいこと言いくるめてそばに居続けた愛したがりのメアリー、が率直な感想です。可愛さ余って憎さ百倍、なのかな。オンリーワンは私よとばかりに立ち振る舞う姿は、なんというか哀れさが先に立ってしまって。

とはいえ、ふたりは共依存なのかもしれませんね。



で、最初の疑問に戻ります。

この曲はメアリーを歌ったものか。私の見解は、否。

冒頭に書きました。1975年11月のアルバムの曲です。もしも本当にメアリーを想い焦がれた歌なら、別れた後の1976年以降でないと辻褄が合いません。もっとも、一人称が「僕」ではなく「私」で、メアリー目線の曲だというのなら、合点がいきます。


いずれにせよ、真実はフレディとメアリーのみが知るのです。

我々第三者は、漏れ出た情報でああだこうだと下世話な詮索をするだけのこと。大きなお世話でした。