ご縁から、【致知】という人間学の研究をしている雑誌を読んで感想文を書き、

チームメンバーで読み合うということをしている。

読んでみると、みな、なぜかハマる。

折角書いた感想文、ブログにあげてみることにした。



致知 特集「意志あるところ道はひらく」

私はこれがやりたいんだ!この人と会いたいんだ!これが好きなんだ!

と自分の気持ちを話していると、

「そういえば!?」と話した相手が思い出してくれて声をかけてくれる。

自力だけではない、他力が働く。

そんな経験を何度かした。

自分の思いや選択が自分の人生を決めていく。


一方、誰かの意思を、誰かの為だからという理由で、いつのまにか自分の意思にしてしまうことや、されてしまうことがある。

本当にそれは自分がやりたいことなのか?

自分の意志なのか?

度を過ぎると、誰かのために頑張ることに必死になり、いつのまにか自分の気持ちを押し殺し、心が壊れてしまう。

マラソンのオリンピック選手で自ら命を絶った円谷さんの話を読んで、自分の過去と少し重なった。

覚悟を決めると、その先はどんどん開け、階段を一歩一歩上っていく。

いつしか舞台はどんどん大きくなり、それは誇らしくもあり、豊かにもなる。

一方でいつしか自分が大事にしていたものが分からなくなることも出てくる。


自分の一番大事にしていることは何なのか?

大事にしていることを大事にすることは、舞台が大きくなればなるほど難しい局面も出てくる。

昨今のコロナウィルスや福島の原子力発電のように、経済のために、人の命の投げ出す事さえ、人は時として判断する。

人々のため、経済、責任、家族、etc.. 

その人の立場よって、大事なものは違って見える。
それは至極当たり前のことだ。

人に人生を掌握されない生き方、自分の人生を生きること、自分の意志。

それには力を抜くこと。立ち止まることが大事なのだろう。



一方でJR東海名誉会長葛西さんが冒頭で

「経済で大切なのは人間を掌握することであり、合理性、相当性を見極めて自分自身や組織の方向を決めること」とおっしゃっている。



経営者やリーダーとなると、この「人の掌握」ということが必ず出てくる。

掌握ではないやり方で経営をすることができないのか?
いわゆるティール組織というやつか?
この掌握が嫌で、私は現在に至る。


組織にいる以上は、これは避けて通れないのか?
マイクロマネジメントはせずに任せ、義務ではなく、信じてチーム運営をしたい。

一方で、マネジメントせねば、それを悪用する人も現れる。悪用する隙を与えたこと自体、管理者の責任だ。
信じられないがために、どんどんマネジメントがマイクロになってなっていくのだろう。
これをしだすと、お互いにつまらない世界がやってくる。



文中「1つの仕事に打ち込む人に天は味方し、応援する」とあった。

1つの仕事がある。

なるべくやらないで楽をしようとする人もいる。

楽をして、管理者には好かれ、上手にやれる人もいる。その方が人生は楽。

一方、プレッシャーに立ち向かい頑張る人もいる。

どちらかといえば私は後者で生きてきた。そしてたまに思う。「損だな」という気持ち。

私の中の誰かがささやく「もっとあの人みたいに上手くやりなよ。そういう生き方もあるよ。」


先日、テニスの大会に出た。
私の得意は前衛のボレー。弱みは後衛のバックハンド。

得意ではない後衛になった時は、攻めずに守る。

決して決めに行かずに、相手の力を利用し、ひたすら当てて返し、ミスをしない事に集中。

前衛に変わったら、得意の攻めへ転ずる。


人生にも攻めや守りの時もある。でも、ずるくは生きたくない。

歳を取って、私の中に、かつてはなかった、「少し楽をしたい」という気持ちの現われなんだろう、

ずるく生きている人を見て、損しているなと思う自分を捨てたい。


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経営者である以上は、自分の家族よりも、会社やみんなを優先することが当たり前。

時間も何も関係なかった。



今は、テニスで言うところの後衛。

自分は自分の大事なものを大事に、心豊かに生きている。
時間で区切れる仕事。仕事の時間と、お母さんの時間。

今の私は、家族を優先したい。
これも、歳を取って、「少し楽をしたい」の現われなんだろうか?

 

日本の女性就業のM字カーブは解消しつつあるというが、中身はいまだM字なのかもしれない。

私自身は少なくともその一人だ。


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