鉄道事故史                    ―常磐線土浦駅 列車三重衝突事故―




←〈前回のからの続き〉


 

 現在、列車事故があった現場には慰霊碑が建立されています。その慰霊碑が建立されている場所はJR東日本の寮の敷地内であるため、入り口で守衛さんに許可をもらい撮影させていただきました。(訪問日:平成23年9月9日 JR東日本土浦寮許可済み)

 こちらの木碑は昭和40年に建てられた供養塔、当時の土浦駅長が発起人となって行った23回忌を期して建てられたそうです。しかし現在は風化でも傷んでおり、文字が読み取る事は不可能な状態。


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これではあんまりだという事で、後の昭和61年に、朽ちた木碑の隣に新しく慰霊碑が建立されました。これが現在の慰霊碑。(あ、自分が写っちゃった。まあいいか)


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     慰霊碑

  
 この慰霊碑は、昭和十八年十月二六日、土浦駅構内に於て発生した列車三重衝突事故による犠牲者の霊を鎮めるために建立されたものである。この列車事故は国鉄史上まれにみる大惨事であった。死者九六名、負傷者は百余名と記録されている。
 事故発生の経緯は以下の通りである。すなわち、貨物二九四列車が同日午後六時四〇分に土浦駅に到着、直ちに入れ換え作業が開始されたが、同貨物列車は誤って上り本線に進入、立ち往生した。その直後、駅構内へ上り二五四貨物列車が侵入、二九四貨物列車と衝突した。このため両者は脱線、暴走、二五四貨物列車は桜川沿いの下り本線上に横転した。この時多数の乗客を乗せた二四一旅客列車はすでに駅構内に接近しつつあり、急停止する間もなく転覆していた貨物列車と激突した。旅客列車は脱線、転覆、一、二両目は大破、三両目は鉄橋から斜めに傾き、四両目は完全に水没した。
 事故発生後鉄道省は迅速にこれに対応した。軍隊の応援を含む二千余名の人員を投入、輸送路確保のための復旧作業を開始した。
 救助活動も直ちに開始された。土浦市は地元各種団体に応援を要請、市民もこぞって不眠不休の応援活動にあたった。しかし辺りは闇に包まれ救助活動は困難を極めた。時あたかも第二次世界大戦の真唯中であったため、救助を他都市に求める事は不可能であった。当時土浦在住の医師の多くは招集され、医薬品は極度に不足していた。医師看護婦は市民と共に必死で救護にあたったが、事故の規模はあまにも大きすぎた。このため負傷者のほとんどは十分な治療を受けることができず、露天の筵上に長時間放置された。
 戦時下の厳しい報道管制により、この事故は国民の耳目に広く触れることなく、犠牲者の霊は公に慰められることも無いままに、長い年月が過ぎ去った。
 昭和四十年に至り、時の土浦駅長などの努力によって事故現場に木碑が建立された。だがその木碑も風雨に洗われ、もはや碑の由来を知ることもできない。
 この度、木碑にかえて永久碑を建立したのは、この悲しむべき惨事による犠牲者の冥福を心より祈ると共に、このような不幸な事故が二度と起こらないことを強く祈念して後世に伝えるためである。

                     
                         昭和六一年六月
                国鉄事故犠牲者の慰霊建立のための準備委員会これを記す
    

(事故の死傷者数は各史料によってバラバラで異なっており、「土浦駅史」「土浦市史」には94名、「国鉄事故重大史」には116名と記載されているが、重大史記載の116名は遺体捜索打ち切り後にも病院へ収容されて死亡した人数を加えている為であるという。当ブログは国鉄事故重大死の死者116名を重視することにする。)








      現在の土浦駅列車三重衝突の事故現場



 土浦駅列車三重衝突事故の発生した場所はどこにあるかというと、現在のJR土浦駅から200m南の桜川鉄橋の直前が三重衝突の事故現場になります。
 
 254貨物列車のD51機関車は、転轍を割出し停車していた294貨物列車と衝突後に、国鉄官舎の敷地に突っ込みあと少しで官舎の建物へのし上げるような場所に横たわっていたといいます。国鉄官舎のあった場所は現在の「JR東日本寮」で、ちょうど機関車の頭部に慰霊碑があるような感じです。

 文章ではちょっとわかりづらいので、詳しく事故現場を再現してみました。ちょうどこのような感じになります。赤い星印は衝突のあったおおよその場所を示しています。(事故原因と被害の状況は以前の記事その②を参照)

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 定点対比


1943(昭和18)年10月26日 事故発生直後の様子
左に写っているのは桜川鉄橋上で横転している241旅客列車の機関車。右に写っているのは、奥に突っ込むような形で縦方向に横転したD51機関車。
https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/5d/d4/maxspeed1000km/folder/1830596/img_1830596_66386649_1?1369736411









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現在 2013年6月
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木が邪魔です・・・・













仕方ないので場所を変えて撮影を試みます。


こちらが現在の事故現場です。昔の写真と比較しながらご覧ください。


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死者116名という大惨事が発生した未曾有の鉄道事故はまさしくこの場所で起きていたのです。
















 という事で、土浦の鉄道事故現場を長い期間にわたって見てまわりました。

 しかし、これだけ大きな事故なのに地元土浦市民どころか、多くの人はこの事故があったのは当時戦時中という事もあり報道規制により多くの人が知らないというのは残念であるような気がします。

 思い返すと、2005年に兵庫県で起きた死者106名のJR福知山線脱線事故がありましたが、あの規模とほぼ同等もしくはそれ以上の大事故が土浦でも起きていたという事です。

 この事故は多くの人に知ってもらうべく記事にしました。

 地元土浦の人や、様々な多くのみんながこの事故があったというの一人でも多く知るきっかけになればと思います。






 
       ~完~









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