―前回のあらすじ―

 元吉田町に幕末の刑場跡があるらしい、その名は吉田境橋行刑場。吉田行刑場について調査をしていると水戸市立図書館で行刑場に関する記述してある「吉田の今と昔」という本を発見した。
 そして「吉田の今と昔」の地図をたよりに行刑場の場所を探すとともに、更にゼ○リンで精密な場所を割り出す事に成功した。吉田境橋行刑場は幕末の刑場で処刑が行われ、敦賀で処刑された天狗党の首領らの首がここで晒されたようだ。街道に隣接するこの場所では、通り過ぎる多くの者がこの獄門台に置かれた首級を目の当たりにした事だろう。
 現場に到着した頃は既に夜。付近は宅地がか進む中ひとつだけぽっかりと空いた空間、そこが吉田行刑場。150年が過ぎたその忌まわしき土地は当時のまま手付かずで放置されているようだった。

    








ひとつだけポッカリと空いた空間、吉田境橋行刑場跡を望む↓↓↓(2010年2月撮影時)
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        水戸市 吉田境橋行刑場 ~後編~



では、前回に引き続き吉田行刑場を調査していこうと思います。

とその前に、一番最初にお伝えする事があります。

前回に深夜に撮影した処刑場の写真をいくつか掲載したところ、同じヤフーブログの方のある方からご指摘がありました。

自分でも気がつかなかったのですが、それは・・・・。








無数の人の顔がハッキリ写っているよ。


お持ち帰りの無い事を祈ります。






との事でした。

その方は霊感があるいわゆる『見える』人で、金縛り・憑依など数多くの心霊体験や心霊現象を経験なさっておられます。

確かに、実際に現場で吉田行刑場を調査している時その行刑場跡にある相当な年代の古木があるのですが、そこが特になにか異様な雰囲気を放っており、気味が悪く違和感をおぼえました。

そのまさか。

悪い予感が的中してしまい、本当に写りこんでいたとは・・・。とても驚いています。

その時に、鑑定してもらった写真がありますので、その写真を皆様にもお見せしておこうと思います。

カメラのノイズなのでちょっと分かりづらいかも知れませんが、このように写っています。







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    このように写っています。





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ぼんやりとですが確かに写っています・・・。幸いにも祟りを受けることも無く、何事なく過ごしていますが・・・

しかしこれだけではなく、更にこう付け加えております。



『これだけハッキリ目や口見えて顔の輪郭が分からないのは、兜の様な被り物でもしてるのかな?それに引き寄せられるように集う霊達。黄チェック以外にも多数いると思います』



実際に霊体験をしている霊感ある人の言葉ですのでかなりの確証があると思っていいと思います。

やはり、ここは曰くつきの土地で、天狗党の自縛霊が棲み付いているのかも知れません。

ここの土地だけ手付かずの状態で、150年間ずっと放置され続けてきたのも納得です。

なぜ、周辺が宅地化が進む一方でこの土地だけは手を加えないのでしょうか。そして、敷地から不自然に出っ張った古木もそのままに。

なんか分かる気がします。

そして行う刑場敷地内にある、あの廃店舗なのですが間違いなく何らかの悪影響が出てるんじゃないかと思います。これについてはあくまで勝手な推測ですが・・・。






   吉田行刑場に関する資料 ―吉田村誌―



では、気を取りなおして調査を続けましょう。

2010年の6月頃でしたが、行刑場についての資料を新たに見つけました。

水戸市立中央図書館が所蔵している『吉田村誌』というもので、大正8年10月に編纂された『吉田村誌』を昭和11年に複写製本したものですが、その後さらに複写したもので年代が製作年が不明です。

その本は閉架書庫にあるため資料請求をして持ってきてもらいました。

当時の様子を今に伝えるとても貴重な資料です。

その貴重な資料、皆様にも公開したいと思います。

それがこちらです。

これが確かに行刑場のあった紛れもない証拠となる!!














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  行刑場旧跡
昔シ罪人ヲ行刑に供スル刑場ハ吉田村分郷茂澤新田並木ニ入リテ三四町街道ノ東側ニ?リ行刑場前?前後四丁??八丁古?行程ノ里程ヲ除カレ故ニ府下ヨリ長岡マテ弐里八丁ト云フ寛ハ。。。。。???







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   <行刑古跡>
旧行刑場 / 鎮魂碑

水戸藩元治甲子ノ擾乱ニ関係セル両派ニ属スル殉難志士ノ行刑サレタ吉田村分郷境橋、吉澤並木ノ両刑場ハ幾?ノ星霧ヲ経テ昭和年代に移リテハ其ノ跡形ナリ其ノ廃絶ヲ憂ヒテ茲【ここ】ニ有志相謀リ其ノ遺跡へ鎮魂碑ヲ建テ其ノ英霊ヲ慰ム

殉難志士  武田彦九郎(武田耕雲斉) 山國兵部 田丸稲之衛門 藤田小四郎 等ノ諸士ハ一先ノ?忠ヲ天朝(朝廷?)に奉ラント越前敦賀ニリ捕レテ斬セラル後其ノ首級ヲ水戸ニ送ラレ吉田村境橋刑場ニ晒首セラル?タ 彦九郎一族モ赤沼ノ獄舎(赤沼処刑場)に斬セラレテ同時ニ晒首セラレタ所ナリ

昌木晴雄ハ小川(旧小川町)ニ於入イテ幕(幕府の)吏ニ捕ラレ水戸に送ラレ同刑場ニ於テ磔刑 晒手セラル





    ところどころ読めん。。。。。



あまりにも古い資料のため、書体が古いせいで所々解読が困難です。

とても重要な事が書いてある気がするのですが何て書いてあるのやら・・・。この文が読める人は訳してコメントしてください。。。。。

所々読めるところだけ拾って見てみると、この吉田村の行刑場に鎮魂碑が建てられていたようだ。

でもそんなのあったかな~? 何もなかったぞ。

しかし驚くべき事は次の文章!!

それは何かというと
 





・武田耕雲斎の妻とき(享年48歳)と子の金吾(享年3歳)は市川三左衛門により赤沼牢で斬首され、のちにその首は天狗党の首領たちとともに、まさしく今いるここ、吉田村境橋刑場で晒首されていた。



・同じく天狗党に所属していた昌木晴雄はこの刑場で磔刑。すなわち、まさにこの吉田村行刑場でも残虐処刑法である磔刑も行われていた





磔刑のイメージ図↓↓
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もう一度、撮影してきた写真をよく見てみた。

あの老木の事がやけにひっかかった。

敷地からはみ出た邪魔なデカイ木をなんでわざわざ残しておくのか。

通常なら切り倒してしまえばいいだろう。






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なんであの木を切らないのか。

なぜなら。。。。。。






あの木では人が死んでいる。



あの木こそが磔刑の処刑台で、木に体を縛りつけ槍や刀でめった刺しにした、間違いなく曰くつきの木なのだ。






写真の老木に写った亡霊。

この木で磔刑にされた天狗党の昌木晴雄の亡霊なのだろうか。

いづれにせよかつてここには鎮魂碑なる慰霊碑があり、この木は地元の有志らによって保存されてきた結果、老木となり現在も残っているのだろう。と同時に、あの潰れた廃店舗はまさに行刑場跡に立地しているという事実が明白となってしまった・・・。









     現在の吉田村行刑場跡



それからの事、行刑場は夏になりヤブに覆われてしまい探索が困難になった。

また冬に行こうと思い、行刑場の事はしばらく忘れてかけていた。

あの老木がやけに気になってしまう。今度行ったら近くまで寄ってみて、ジックリまじまじと見てみよう。

そしてつい最近の事だった。

12月5日に再び、吉田村行刑場を訪れた時の事。。。。。











(元、吉田村行刑場だった場所↓)
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   え!!!?














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完全になくなってる!!!!!






なんと!!

吉田村誌にもあった通り昭和時代により地元の有志により守られてきたこの場所は鎮魂碑が建てられ遺跡として守られきた。

しかしとうとう、このわずか半年の間でその遺跡は跡形も無く潰されてしまい駐車場となってしまっていた。

大正から昭和へと続き、つい最近までは存在していたものが、とうとう廃絶してしまった。2010年12月の事だった。

無念としかいいようがない。大人の事情で仕方がない事なのかも知れないですが、とても残念です。

せめて小さいスペースにでも鎮魂碑くらいは残して欲しかったと思います。

もうこの場所は人々からは忘れられていくでしょう。

でも最後に、廃絶を前に、吉田村境橋行刑場を訪れる事ができて良かったです。運がいいと思います。

調査開始から約1年半、残念ですがこれで吉田村境橋刑場跡の調査を終了し、その結果の報告とさせていただきます。

調査終了。









    ~おわり~