桜田門外の変 |
~映画公開記念~ |
アメリカのペリー率いる黒船来航から3年後の安政3年7月(1856)。
下田に駐在していたアメリカ総領事ハリスが、突然、神奈川(横浜)の近くに軍艦でやってきたことからはじまったという。ハリスは下田に入港、アメリカ軍艦ミシシッピー号の館長から、英・仏連合軍が清国の広東、天津を占領し、露、米、英、仏4カ国と清国との間に天津条約がむすばれた事を報された。
ハリスは、独断で神奈川にやってくると、英、仏連合軍が、清国征服の余勢をかって数十隻の軍艦で日本に押しかけてくるだろう、と告げ、日米通商を早く締結するほうが日本にとって有利だ、と、締結する決意をするよう強く迫った。
大老井伊直弼は、ハリスと応接する下田奉行,井上清直と目付,岩瀬忠震に、条約締結は朝廷の許可を得る必要があるので、なるべく調印を延期するように命じた。
その折、井上が
「ハリスの要求が強く是非におよばぬ場合には、調印してよろしゅうございましょうか」
とただしたのに対し、井伊は、
「その折は致し方あるまい」
と答えた。
ハリスと折衝した井上と岩瀬は、結局ハリスの強硬な意見に屈し、19日に日米修好通商条約が締結され、それは大きな波紋となって広がっていった。
その2日後、朝廷を無視して条約を締結したことに憤激した斉昭が、子の藩主慶篤、尾張藩主徳川慶勝とともに、突然登城し、また、越前藩主松平慶永と斉昭七子,一橋慶喜も登城してきつく抗議した。
しかし井伊直弼は条約締結はやむを得ないとし、逆に、押しかけ登城の責任を問い抗議した徳川斉昭らは処罰される事となった。徳川斉昭に謹慎。慶篤と慶喜に登城禁止。慶勝と慶永には隠居して家督をゆずらせ、謹慎。
徳川御三家のうち井伊派に属す紀州藩以外の水戸、尾張両藩に登城を禁じる罰を科した事はまことに異例で、井伊派は自分に反対する徳川斉昭たちを容赦なく圧伏した。
さらに井伊直弼は、水戸藩家老の安島帯刀【あじまたてわき】と、水戸藩小姓頭取の茅根【ちのね】伊予之介、水戸藩京都留守居役の鵜飼【うがい】吉左衛門を斬首し、その子である鵜飼幸吉を獄門、同じく水戸藩勘定奉行の鮎沢井太夫に遠島刑を申し渡した。
下田に駐在していたアメリカ総領事ハリスが、突然、神奈川(横浜)の近くに軍艦でやってきたことからはじまったという。ハリスは下田に入港、アメリカ軍艦ミシシッピー号の館長から、英・仏連合軍が清国の広東、天津を占領し、露、米、英、仏4カ国と清国との間に天津条約がむすばれた事を報された。
ハリスは、独断で神奈川にやってくると、英、仏連合軍が、清国征服の余勢をかって数十隻の軍艦で日本に押しかけてくるだろう、と告げ、日米通商を早く締結するほうが日本にとって有利だ、と、締結する決意をするよう強く迫った。
大老井伊直弼は、ハリスと応接する下田奉行,井上清直と目付,岩瀬忠震に、条約締結は朝廷の許可を得る必要があるので、なるべく調印を延期するように命じた。
その折、井上が
「ハリスの要求が強く是非におよばぬ場合には、調印してよろしゅうございましょうか」
とただしたのに対し、井伊は、
「その折は致し方あるまい」
と答えた。
ハリスと折衝した井上と岩瀬は、結局ハリスの強硬な意見に屈し、19日に日米修好通商条約が締結され、それは大きな波紋となって広がっていった。
その2日後、朝廷を無視して条約を締結したことに憤激した斉昭が、子の藩主慶篤、尾張藩主徳川慶勝とともに、突然登城し、また、越前藩主松平慶永と斉昭七子,一橋慶喜も登城してきつく抗議した。
しかし井伊直弼は条約締結はやむを得ないとし、逆に、押しかけ登城の責任を問い抗議した徳川斉昭らは処罰される事となった。徳川斉昭に謹慎。慶篤と慶喜に登城禁止。慶勝と慶永には隠居して家督をゆずらせ、謹慎。
徳川御三家のうち井伊派に属す紀州藩以外の水戸、尾張両藩に登城を禁じる罰を科した事はまことに異例で、井伊派は自分に反対する徳川斉昭たちを容赦なく圧伏した。
さらに井伊直弼は、水戸藩家老の安島帯刀【あじまたてわき】と、水戸藩小姓頭取の茅根【ちのね】伊予之介、水戸藩京都留守居役の鵜飼【うがい】吉左衛門を斬首し、その子である鵜飼幸吉を獄門、同じく水戸藩勘定奉行の鮎沢井太夫に遠島刑を申し渡した。
水戸藩では斉昭父子の処罰をとくには朝廷の力を借りる以外に無いと判断し、水戸藩と深い関係のあった日下部井三次(くさかべいそうじ)を京に出発させた。それが思いがけない局面の展開となる。
京についた日下部井三次は、内大臣三条実万を訪れ、要望書を提出し、その実現に努力して欲しいと熱心に説いた。
1.水戸、尾張、越前の斉昭、慶篤、慶勝、慶永に対する罰を朝廷の命令によって解除して欲しいこと。
1. 現将軍.徳川慶福(よしとみ(家茂いえもち))は、幼いので、一橋慶喜を補佐役に任じ、時期将軍と定め、また、斉昭を将軍とすること。
朝廷では日下部らの運動で幕府に勅命を下す気運が熟し、この件について公卿たちが討議し朝廷から幕府のみならず水戸藩にも勅命を下すことを決定した。
書面の内容は、慶篤、慶勝、慶永についての処罰を非難し、独断で条約調印を行った幕府の非を責めている。それは、伊井大老を中心とした幕閣に対しての憤りと同時に、伊井直弼と対立する斉昭への好意を示すものであった。それまで朝廷は、幕府に政治を委任し口出しする事はなかったがしかし、勅命書は幕府に対する積極的な政治的指示であり、しかもきびしい内容のものであった。
その勅命書の内容は
1. 日米修好通称条約が勅命を得ずして調印されたことは、まことに不都合であること
2. 水戸、尾張、越前家への処罰はどのような罪によるものか甚だ理解しがたい。
3. 大老、老中は、御三家、諸大名の意見を十分に尊重し、朝廷と連携して国内を治め、外国のあなどりを受けぬこと。
勅命書は、幕府には水戸藩よりも2日遅れて届き、しかも同じ内容のものが記されていた。
8月30日、幕府は水戸藩に対して突然、重臣の更迭命令を下し、斉昭、慶篤の手足となって動いていた家老たちを左遷又は辞任させるという強行手段に出た。
「勅命書を諸大名に伝えよ」と朝廷は指令しているのに、その伝達を禁じ更に藩内の人事を一変する事に、水戸藩士はもとより郷士や農兵たちの怒りはつのった。
幕府と水戸藩は完全に対立し、重苦しい空気が広がっていた。
井伊直弼は重大決意を固めて、京へ向かっている老中間部詮勝(まなべあきかつ)に書状を送り、京で策動している水戸藩士への弾圧を命じた。大老井伊直弼は、水戸藩領内の者に多数、探索者を潜入させ、虚無僧や旅の商人などに姿を変えて、報告は詳細を極めていた。
京には、各藩から朝廷の動きをさぐるため多くの人が送り込まれていたが、水戸藩からも探索のものがひそかに派遣され、水戸藩,京都留守居の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん/水戸藩家臣)、鵜飼幸吉(うがいこうきち/吉左衛門の子)を中心に情報収集に努め、入手した情報を水戸藩邸にぞくぞくと報告していた。
勅命書を受けた水戸藩主.慶篤は、鵜飼幸吉に、朝廷に対する受領書を水戸藩に好意をもつ左大臣【さだいじん。朝廷の最高機関、太政官の職の一つ】, 近衛忠煕(このえただひろ)、内大臣【ないだいじん。日本の大臣の一つ】の三条実万(さんじょうさねつむ)に渡すことを命じ、鵜飼吉左衛門は斉昭に好意をもつ萩、越前、宇和島、鳥取の各藩に勅命書の内容を密かに伝え、協力を求めた。
井伊直弼に命じられ京に入った間部は、ただちに鵜飼吉左衛門と子の幸吉を捕らえて獄舎に投じ、吉左衛門が、江戸にいる水戸藩家老安島帯刀(あじまたてわき)に送った密書が間部の手に落ちた。幕府では、多くの老練な隠密を京に送り込んでいたが鵜飼吉左衛門がしばしば江戸に書簡を送っているのを探知し、書簡を飛脚屋の大黒屋庄次郎に託しているのを知った。
これにより、吉左衛門が飛脚屋に託した書状は押収されたが、それには驚くべき内容が隠語まじりで記されていた。
9月16日夜、<薩摩藩士西郷吉兵衛が来て薩摩藩の兵が>大阪表へ明日、明後日之内 弐百五拾五騎相備、大銃 五百目筒四挺引付置候。
カンポウ(間部老中の隠語)万一 暴政(志士の逮捕)の模様 <がみえた場合には伏見まで進み、更に実際にその暴政を行った折にはただちに軍事行動にでる手筈になっております。これに呼応して土佐藩は大阪まで兵を出し、長州藩も兵庫まで百五十騎が出兵し> カンポウ位は一時打払い直ちに沢山城(沢山~彦根城)へ押懸ケ一戦に踏み潰し申すべし。
<沢山城は、井伊大老が江戸へ多くの藩士を連れて行ってるので>空虚に付、一戦に落城<させる見込みである>。
つまり、薩・長・土、三藩の兵が出撃して間部老中を打ち払い、彦根城も襲ってこれを占拠するという計画であった。
この密書を手にした間部は、井伊大老に反感をいだく勢力が武力をもって幕府政治から根底から覆そうとしている事を知り、伊井大老を圧殺しようとしている反対勢力を壊滅させるには、徹底した弾圧を行う以外にはないと決断した。
徹底した家宅捜索が行われた結果、多数の書類が押収されて志士たちの姓名と動き明らかとなり、これがきっかけになって遂に、大獄へと発展していった。
井伊大老は、反対勢力の根絶をくわだて、多くの尊王攘夷の志士たちを捕らえたが、それ以外に、幕政を批判する公卿の近臣を捕らえた事は、朝廷を少しも恐れぬ意思を公然と示し、反対勢力の中心である水戸藩に痛撃を与えるため藩士の逮捕に手をつけているがまだ手始めに過ぎず今後その範囲が一層広がることが予想された。
京には、各藩から朝廷の動きをさぐるため多くの人が送り込まれていたが、水戸藩からも探索のものがひそかに派遣され、水戸藩,京都留守居の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん/水戸藩家臣)、鵜飼幸吉(うがいこうきち/吉左衛門の子)を中心に情報収集に努め、入手した情報を水戸藩邸にぞくぞくと報告していた。
勅命書を受けた水戸藩主.慶篤は、鵜飼幸吉に、朝廷に対する受領書を水戸藩に好意をもつ左大臣【さだいじん。朝廷の最高機関、太政官の職の一つ】, 近衛忠煕(このえただひろ)、内大臣【ないだいじん。日本の大臣の一つ】の三条実万(さんじょうさねつむ)に渡すことを命じ、鵜飼吉左衛門は斉昭に好意をもつ萩、越前、宇和島、鳥取の各藩に勅命書の内容を密かに伝え、協力を求めた。
井伊直弼に命じられ京に入った間部は、ただちに鵜飼吉左衛門と子の幸吉を捕らえて獄舎に投じ、吉左衛門が、江戸にいる水戸藩家老安島帯刀(あじまたてわき)に送った密書が間部の手に落ちた。幕府では、多くの老練な隠密を京に送り込んでいたが鵜飼吉左衛門がしばしば江戸に書簡を送っているのを探知し、書簡を飛脚屋の大黒屋庄次郎に託しているのを知った。
これにより、吉左衛門が飛脚屋に託した書状は押収されたが、それには驚くべき内容が隠語まじりで記されていた。
9月16日夜、<薩摩藩士西郷吉兵衛が来て薩摩藩の兵が>大阪表へ明日、明後日之内 弐百五拾五騎相備、大銃 五百目筒四挺引付置候。
カンポウ(間部老中の隠語)万一 暴政(志士の逮捕)の模様 <がみえた場合には伏見まで進み、更に実際にその暴政を行った折にはただちに軍事行動にでる手筈になっております。これに呼応して土佐藩は大阪まで兵を出し、長州藩も兵庫まで百五十騎が出兵し> カンポウ位は一時打払い直ちに沢山城(沢山~彦根城)へ押懸ケ一戦に踏み潰し申すべし。
<沢山城は、井伊大老が江戸へ多くの藩士を連れて行ってるので>空虚に付、一戦に落城<させる見込みである>。
つまり、薩・長・土、三藩の兵が出撃して間部老中を打ち払い、彦根城も襲ってこれを占拠するという計画であった。
この密書を手にした間部は、井伊大老に反感をいだく勢力が武力をもって幕府政治から根底から覆そうとしている事を知り、伊井大老を圧殺しようとしている反対勢力を壊滅させるには、徹底した弾圧を行う以外にはないと決断した。
徹底した家宅捜索が行われた結果、多数の書類が押収されて志士たちの姓名と動き明らかとなり、これがきっかけになって遂に、大獄へと発展していった。
井伊大老は、反対勢力の根絶をくわだて、多くの尊王攘夷の志士たちを捕らえたが、それ以外に、幕政を批判する公卿の近臣を捕らえた事は、朝廷を少しも恐れぬ意思を公然と示し、反対勢力の中心である水戸藩に痛撃を与えるため藩士の逮捕に手をつけているがまだ手始めに過ぎず今後その範囲が一層広がることが予想された。
つづく. . . . |