桜田門外の変  
           ~映画公開記念~


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いよいよ待ちに待った映画『桜田門外の変』の全国公開がはじまりました!!

水戸・茨城を題材にした映画がしかも全国映画になるなんて二度無い事であります!

という事で茨城県民の有志たちが苦労にじむ努力で創り上げた映画なんで、是非見に行っていただきたいと思います。





と、その前に





『桜田門外の変って何??』

『なんで江戸幕府大老の井伊直弼を暗殺する事になったのか?やっつけちまうなんて水戸藩は極悪だな~~』

『なんで外国船を追い払うの?仲良くしたらいいじゃん?』





いろいろな疑問や憶測が飛び交ってくると思いますが。。。。。。

 この『桜田門外の変』は遥か昔に起きた事件で、もう過ぎ去った過去の事として忘れ去られていますが、今頃になって大事な教訓を残しています。
江戸幕府の大老井伊直弼はある日、軍艦4隻の大艦隊を率いてやってきた外国アメリカの威圧に屈して、不平等条約に調印してしまい、更に外国の言いなりになってしまいます。それらは現在の日本にも同じことが言え重なり合う共通点が多いです。
 水戸の徳川斉昭をはじめとする水戸藩たちは、強大な力で艦隊率いる外国の脅威から日本を守るべく様々な提案をし実行すると同時に、外国の言いなりになっている井伊直弼をはじめとする江戸幕府にいらだち、なんとか今の情勢を変えようと試みます。







すなわち、桜田門外の変とは!!!




自分も難しくてあまり把握してないのであります( ̄∇ ̄U) ハッハッハッ

とても複雑な事情や情勢が絡んで起きた事件でとても難しく、一言で聞いただけで理解するには難しいのです。

そこで!!

映画の原作となった小説『桜田門外の変』を一読して、桜田門外の変がどういう事件で何が原因だったのかなどを詳しく理解するべく、映画を見る前に予習したいと思います!

しかし、この小説『桜田門外の変』をあなどってはいけません。一部演出(フィクション)などはありますが小説の最初のページにも書いてある通り、周到な取材と緻密な構成で、事件を事細かくリアルに描いています。 よく調べたと思い感心します。

という事で今回は映画の題材となったこの小説を参考に、暗殺を実行するまでの話の内容・あらすじが書かれている小説の上巻を中心に、桜田門外の変について紐を解き、予習していきたいと思います!

話の要点を小説から抜粋して分かりやすくまとめてみましたのでご覧下さい( ̄▽ ̄)ノ







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桜田門外の変 / 吉村昭 / 定価552円  <吉村昭 YoshimuraAkira>(1927~2006) 東京日暮里生れ。学習院大学中退。1966(昭和41)年『星への』で大宰治賞を受賞。その後、ドキュメント作品に新境地を拓き’73年『戦艦武蔵』等で菊池寛賞を受賞。以来、多彩な長編小説を次々に発表した。周到な取材と緻密な構成には定評がある。










文政7年(1824) 大津浜異人上陸事件


 大津浜(北茨城)の南の川尻その他の漁師たちは海岸から五十里沖を横磯(よこいそ)と称して、その線から沖へ出る事はしなかった。横磯の沖には黒潮が流れていて、その速い潮流に乗ると海岸へ引き返せず遭難の危険があったからである。
 その前の文政5年からどういう事情なのか鰹が遠い沖に集まり、漁師たちは病むを得ず横磯の外まで舟を進めた。そこで眼にしたのは多くの異国船で、鯨を追っているようだった。
 6月5日、会瀬浜(日立市会瀬町)の漁師の忠五郎が『異国人が果たして自分たちに悪意をいだいているかどうかを確かめる』と言って、異国船に漕ぎ寄せた。縄梯子が降ろされ、忠五郎は甲板に上がり酒食の饗応(きょうおう)をうけた。
 警戒心を解いた忠五郎は再び異国船に行き、3日間捕鯨の仕事を手伝い、船長から酒と菓子をもらい家に戻り、仲間に分けた。
 その事が役人の耳にも入り、多くの異国船が沖で行動しているという話しが藩領一帯に流れ、恐慌状態に陥った。
 
 更に翌年5月、大津浜で12名の異国人が上陸するという事件が起きた。水戸藩始まって以来の大事件であると同時に日本にとっても重大事。使者の報告によると、急行した陣屋の者たちが巧みに郷士【一般的に農村に居住する下級武士】の家の土蔵に導き監禁したという。
 会沢正志斎(あいざわせいしさい)は、飛田逸民【とびたいつみん。弘道館の教授】とともに、土蔵に押込められている異国人を尋問することに。彼らの言語は分からず、地図を広げて指ささせた。間違いなくロシアと思っていたが意外にもエゲレス(イギリス)であった。
 
 その事は水戸から江戸藩邸・幕府に報告され、驚いた幕府は代官の古山善吉と普請役元締格の河久保忠八郎、オランダ通詞の吉雄忠次郎とロシア通の間宮林蔵らを大津浜に急派。
 古山代官一行が大津浜に到着したのは2日後。ただちに通詞の吉雄忠次郎らは土蔵に赴きオランダ語で尋問した。


   「その方どもすべてエゲレス(イギリス)人なるか?」 
   「ロンドンを立帆仕り、それより18ヶ月に相申候。」

   「何用あってこの地に上陸したるや?」
   「本船に壊血病の者御座に付、果実、野菜、オランダ草のようなもの、並びに羊、鶏の肉を得たく候に付、上陸し候」

   「本船は、なんの舟なるや?」
   「鯨諒の舟にて候」

   「沖にそのような舟が何艘ほどこれありや?」
   「30艘御座候して、所々で仕事いたし候」


 驚かせたのは沖に30隻もの異国船が、それらは一隻につき30名から40名が乗り組んでいて、数千名程の異国人が近くにいることに言葉もなかった。尋問は続き、吉雄が異国人に対する申渡書をオランダ文で作成した。

わが国法にそむいて舟を近づいただけではなく、不法にも上陸したのは容易ならざる事である。しかし、その方どもはわが国法を知らず、病人のために上陸した事であるのでこの度は許す。また、病人に必要な物品はあたえるから早々に退去せよ。もしも今後再びわが国に近づき上陸するような場合は断固処罰する。この事を帰ったら鯨獲りの者どもはもとより、他の異国人たちにも伝えよ。


文字を眼で追っていった船長キプリンはその内容を他のものに伝え、彼らの間から歓声が起こった。

朝六ツ(6時)、すでに海岸に置かれた、2隻のボートは与えた食料が積み込まれ、藩士の見守る中でボートは遠ざかり霞の中に消えていった。。


これで異国人上陸騒動は一段落し、大津浜に隣接する棚倉藩の布陣する藩兵300名余りが引き揚げを開始し、水戸から派遣されていた藩兵も伊師まで引き揚げ、さらに水戸にむかった。

水戸藩領は長い海岸線でゆるやかな地形で江戸に近く、外敵が侵攻してくる恰好な上陸地であるため、海岸の防備が必要になってきた。このような条件をそなえているのは、全国で水戸藩以外にない。
 藤田幽谷(ふじたゆうこく)が早くから海岸防備の必要性を説き、徳川斉昭も藩主になる以前から海防に情熱をいだいてきたのは、その長大な海岸線に強い危機感をいだいているからに他ならなかった。






将軍の跡継ぎ問題 と 彦根藩主の井伊直弼の大老就任



徳川家定【江戸幕府第13代征夷大将軍】は病弱で暗愚【あんぐ。物事の是非を判断する力がなく、愚かなこと】といわれ、子もないために、次期将軍には紀州藩の徳川慶福(家茂)と、斉昭の第7子である一橋慶喜(徳川慶喜)の2人が有力視されていた。そして、慶福を推する紀州派(南紀派)と、慶喜こそ将軍にすべきという一橋派の対立が激化していた。
 
 この対立によってひとつの図式があらわれた。条約締結反対な大名は一橋派。締結を推進する井伊直弼をはじめとした大名は紀州派。

 両者の対立は一橋派が有利に見えたが、突然、彦根藩主の井伊直弼の大老就任が発表された。
 大老は、将軍補佐役で絶対的な権限を持ち、将軍すらその決裁を動かすことはできなかった。これにより一橋派の敗北は決定的になり、次期将軍は慶福が継ぐ事が確実となった。また、開国はやむを得ないと強調していた井伊直弼が大老就任により、その線に沿って対外政策を展開する事が必至となっていた。





第9代水戸藩主 徳川斉昭
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   VS

          第15代彦根藩主/江戸幕府大老 井伊直弼

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    つづく. . . .
                                                     


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