今回の『水戸の歴史』シリーズは、水戸にある赤沼牢獄の続きを取り上げようと思います。
赤沼牢屋敷では幕末になると水戸天狗党の処刑が連日行われました。
赤沼牢獄について調べを進めていたら、新たな事実を見つけました!!
赤沼牢獄について調べを進めていたら、新たな事実を見つけました!!
処刑はどのように行われ、赤沼牢獄舎の内部は一体どのようになっていたのでしょうか?
赤沼牢の内部の様子を伝える書物を見つけたので、その文面を交えて赤沼牢屋敷の内部の様子に迫っていこうと思います!!
そして、赤沼牢屋敷の場所を精密に割り出してみようと思います。
実際に、赤沼牢はどのくらいの広さがあったのでしょうか??
赤沼牢の場所を特定してみようと思います。
上の文面によれば、赤沼の敷地面積は3300平方メートルあったようです。
3300平方メートルというと大体・・。
数学が得意な人は計算してください(笑)
数学が得意な人は計算してください(笑)
約55m×55mくらいだと仮定すると結構な大きさになると思われます。
赤沼牢は水戸城下町絵図には「獄屋」というふうに記載されています。
水戸城下町絵図↓


拡大↓↓

あれ、こんなところに川なんかあったっけかな??

あれ、こんなところに川なんかあったっけかな??
フルサイズバージョン↓↓
http://proxy.f3.ymdb.yahoofs.jp/users/46553f14_88bf/bc/c057/__hr_/5222.jpg?bcYh5tJB_QpLqZqp
注:サイズがかなり重いです。 |
昭和9年の地図↓


現在↓↓


城東産業の有料駐車場と、東台駐車場だけだと、3300平方メートルの半分も満たないというのが明らかに分かると思います。
では、残りの赤沼処刑場の敷地は一体どこら辺に??(゜ロ゜)ギョェ
自分の推測では、昭和9年の地図と天保期の地図を見比べてみると、赤沼牢跡は赤丸で囲んだところにあったのではないかと思います。
廃藩置県になる前の明治2年(1869)、下市の赤沼牢屋敷の刑場で、ひとりの少年がひそかに見た『斬首実見の記』が書き残されている。
~斬首実見の記~
明治2年、私が9歳の時であった。この頃の藩政は無論藩主(徳川昭武)が取り扱っていたから、刑事の執行は旧藩時代と同様で、時々斬首が行われた。
刑場は至って無造作で空堀の上に板塀をめぐらしてあるばかりだから、その空堀を越えて板塀に取りつけばところどころの節穴から刑場の有様がうかがわれた。
その距離は二間(3.6m)か、三間(4.9m)の間なれば、怖いもの見たさに忍び寄って手に取る如く見物した。
ある時私の漢学の師匠で藩の裁判官を務めていた横山高堅先生(1829~1897)が門人に対して、「明日は秦彌一という者の斬首がある。彼は友人と論争の上これを殺した者で、自分が死刑を宣告した」と言われた。当日、私は例の節穴からそっと見物した。
平地に縦二尺(60cm)ばかりの穴を掘り、その穴に臨んで敷かれた荒菰【あらこも】の上に、牢屋の方より白布で目隠しをして連れてきた囚人を座らせ、番太郎が囚人の首を穴の方へ突き出せば、執刀者は狙いを定めて罵声もろともこれを切り落とした。
彼の秦彌一は当日第3番目に引出されたが、尋常にその名を名乗り、声朗らかに
啼(な)かざればとらはれまじを 鴬(うぐいす)のなく音あだなる春の初声
と二度辞世をくり返して更に悪びれた様子がなかったのはなかなかの度胸のすわった人物であった。
また次の囚人は何という男やら
春風に高くあがりし あの鳶凧 どの加減で切れたのやら
と高々に都々逸を唄ったが、その他は黙々と斬られてしまった。
(ところで荒菰ってなんですか・・??分かる人はコメントをお願いします(´Д`;) )
さて、この赤沼牢屋敷の処刑場はこの証言によれば、おおよその処刑執行の実態が分かるとおもうが。
つまりどういう事だろう??
平地に縦二尺の穴の前に囚人を座らせ、処刑執行人が囚人を正座の状態で前に前屈させ、斬られた首が掘った穴に落ち、その穴がバケツのような役目を果たし鮮血が溜まるという事であろうか・・。
そんな、打ち首を水戸市の下市のごく身近な場所で、しかも淡々と行っていたなんて想像しただけでも恐ろしい話である(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
つまりどういう事だろう??
平地に縦二尺の穴の前に囚人を座らせ、処刑執行人が囚人を正座の状態で前に前屈させ、斬られた首が掘った穴に落ち、その穴がバケツのような役目を果たし鮮血が溜まるという事であろうか・・。
そんな、打ち首を水戸市の下市のごく身近な場所で、しかも淡々と行っていたなんて想像しただけでも恐ろしい話である(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
『明治大正の水戸を行く』という本では、実際に赤沼牢獄に投獄された人による貴重な証言による、赤沼獄舎内の様子が詳細に記されている。
これまた引用が長くなるが見ていただきたい
↓↓
評定所で裁判の結果、罪状が明白になると罪人はこの獄舎(赤沼牢)に送られた。
四棟の牢舎は揚り(?)や大牢、新牢、つめ牢の四つに分かれていたが、赤沼は元来湿地だから(赤沼の地名の由来は赤い沼からきている)牢内はいつもじめじめしていて設備も悪く、不衛生極まるこの世の地獄だった。
明治20年に死んだ久慈郡松栄村(現在常陸太田市金砂郷地区)の綿引亨は、慶応2年に入牢し「自筆堂記」を書いているが、それによると6坪の獄舎に24人の罪人が雑居し、入浴はさせず結髪もさせず、洗濯もさせない。夜は無灯無枕。臭気がひどくて眠れなかったとその悲惨な生活を筆にしている。
幕末になると吉沼や吉田の刑場で行われていてたハリツケや斬罪がここでもおこなわれるようになった。
死刑囚は殺される朝は、きまってサイの目に切った豆腐汁を食わされたので城下の町人達は明治、大正になっても、豆腐をサイの目に切るのを嫌い、
銭湯でぬれ手ぬぐいの端を両手で持ち、パッと音を立てて広げるのを嫌がった。
首を切るときの音に似ているという・・・
死刑囚を斬った刀を研ぐ御用研師、常盤才兵衛が白銀町に住んでいたのは元禄時代だったが彼の死後、玉川徳衛門、白石四郎兵衛などが御用研師として扶持米をもらっていた。
「水戸藩党争始末」に、「蓋し水戸明党の獄たる、嘉永は弘化よりも苛に、元治は安政よりも惨に、明治は元治よりも虐なり」と書いてあるが、弘化、嘉永後の十数年は水戸城下は未曾有の恐怖時代を現出し、獄舎は毎日鮮血に染められた。
↓↓
評定所で裁判の結果、罪状が明白になると罪人はこの獄舎(赤沼牢)に送られた。
四棟の牢舎は揚り(?)や大牢、新牢、つめ牢の四つに分かれていたが、赤沼は元来湿地だから(赤沼の地名の由来は赤い沼からきている)牢内はいつもじめじめしていて設備も悪く、不衛生極まるこの世の地獄だった。
明治20年に死んだ久慈郡松栄村(現在常陸太田市金砂郷地区)の綿引亨は、慶応2年に入牢し「自筆堂記」を書いているが、それによると6坪の獄舎に24人の罪人が雑居し、入浴はさせず結髪もさせず、洗濯もさせない。夜は無灯無枕。臭気がひどくて眠れなかったとその悲惨な生活を筆にしている。
幕末になると吉沼や吉田の刑場で行われていてたハリツケや斬罪がここでもおこなわれるようになった。
死刑囚は殺される朝は、きまってサイの目に切った豆腐汁を食わされたので城下の町人達は明治、大正になっても、豆腐をサイの目に切るのを嫌い、
銭湯でぬれ手ぬぐいの端を両手で持ち、パッと音を立てて広げるのを嫌がった。
首を切るときの音に似ているという・・・
死刑囚を斬った刀を研ぐ御用研師、常盤才兵衛が白銀町に住んでいたのは元禄時代だったが彼の死後、玉川徳衛門、白石四郎兵衛などが御用研師として扶持米をもらっていた。
「水戸藩党争始末」に、「蓋し水戸明党の獄たる、嘉永は弘化よりも苛に、元治は安政よりも惨に、明治は元治よりも虐なり」と書いてあるが、弘化、嘉永後の十数年は水戸城下は未曾有の恐怖時代を現出し、獄舎は毎日鮮血に染められた。
上の引用の通り、赤沼牢はもともと牢屋敷であったが、天狗党の乱、水戸藩内乱により水戸は戦場と化し、幕末期には赤沼牢は処刑場となり、水戸藩諸政党の『市川三左衛門』の命令により、同じく水戸藩天狗党の家族ら、何も罪のない、女・子供・関係なく次々と残酷な処刑をされていった・・。
水戸の赤沼牢内部でこのような惨劇が日々繰り返され、獄舎が毎日鮮血に染められていたとは何と言う惨劇でしょうか!Σヾ(゚Д゚)ノ
水戸の赤沼牢内部でこのような惨劇が日々繰り返され、獄舎が毎日鮮血に染められていたとは何と言う惨劇でしょうか!Σヾ(゚Д゚)ノ
赤沼牢屋敷は明治初年に廃止されたとあります。
赤沼牢の廃止後の跡地の経緯、慰霊碑建立までのエピソードが『水府異聞』という本にあります。
銀杏樹と寄り添うように立つ霊魂碑と並んで供養塚。いづれも米穀商の根本常次郎さん(昭和43年没・66歳)が入手した牢屋敷跡地の一隅に昭和13年に建てたものである。 現在、跡地は当主の根本昇さんが経営の『城東産業』の有料駐車場などになっている。 常次郎さんの未亡人りんさん(77)と実妹百合子さん(64)の話によると、当時吉田屋製材所の所有地だった赤沼牢屋敷跡地の一千坪(3300平方メートル)が五十銀行から競売に、そのうち六百坪を常次郎さんが買い求めた。秋になると黄金色の実がなるカラタチの生垣が牢屋敷跡の名残をとどめていたという。 戦後、付近で下水溝工事の掘削をしていた人夫が「どうもこのあたりの土は異様だ」と言い出した。近所の博識のお医者さん、原敏夫先生(昭和42年没・72歳)に相談したところ、黒羽根町で映画館・セントラル劇場を経営していた熱心な日蓮宗の『出口しん』(故人)を紹介され、出口から譲られた「日達上人染筆」の妙号を碑に、多くの回向者による経石をおさめた供養塚を建立。 昭和26年3月の彼岸入りに、妙法寺のお坊さんたちによる慰霊の断食も70日間にわたって行われた。 死者の霊魂は亡くなった地にあると言います。由来板の案内の取り付けと周りの整備をこの7月に済ませました。昨年の夏、7,8台の車で史跡研究の先生方が見えたりしましたので、また、欠かさずお参りしてくださる方にも偲んで頂こうと由来を記しました(根本百合子) 【水府異聞 綱代 茂 1989発行 】
現在、赤沼牢屋敷跡は前述の通り、昭和13年に根本常次郎さんにより慰霊碑が建てられ、その後昭和26年に多くの回向者により供養塚を建立しました。

↑ 昭和26年に供養塚が建立された当時の落慶法要

↑↑
左が昭和13年に根本常次郎さんが建てた鎮魂碑。
右が回向者によって建てられ、昭和26年に妙法寺のお坊さんによって大供養が行われた供養塚。
2つの赤沼慰霊碑の真ん中にある白い看板については、どの書籍も触れてはいないのでいつごろ誰によって建てられたか分かりませんでしたが、供養塚の跡に、少なくとも上↑の「水府異聞」の出版年1989年以降に建てられたものだと思われます。(水府異聞の写真にはそれがない)。赤沼牢跡の神聖な供養塚のど真ん中に設置するのではなく、せめて横に添えるように設置してください(´・ω・|||)
文面でもある通り、少なくとも戦後間もない頃までは死者の怨念が立ち込めていたのは確かです。
この、当時製材所であった、元処刑場跡地という曰くつきの土地を自費で買収してまで、赤沼牢屋敷の慰霊碑を建立し、その後の赤沼牢跡の保存と供養に貢献をした根本常次郎さんに敬意を表したいと思います!!
根本常次郎さんの行動がなければ、今頃、赤沼牢は工場の床下にでも埋まり、人々から忘れ去られていた事でしょう。もっとも、怨霊として出てきたかも分かりませんが・・。
★次回の『水戸の歴史』シリーズは、水戸市渋井町にある、赤沼で処刑された死体を無造作に埋葬したとされる「死者を葬りし土壇場」と、吉沼境橋処刑場を取り上げてみようと思います。
こちらも、とても暗い悲愴的なものですが、楽しみにしていてください・・(汗)
