第6章:夜明けと煙突 第7章:シビックセンターと煙突 第8章:近接撮影 第9章:20世紀最後の大雪
樫村博康氏は、この日立大煙突がもうこの先、長くはない事を予見していた。
夜明け前の早朝に、大煙突の撮影だけを目的として、標高623mもある高鈴山に登るのは相当な体力・行動力がなくてはとても出来ないが、煙突にかける情熱と、それだけの価値のある、人々をとりこにする魅力が大煙突にある。
大正3年竣工の大煙突はす79年の歳月が経過し、時間の経過と共に発生する老朽化はまぬがれず、まさしく樫村氏の予感は的中し、この3年後の1993年2月19日に大煙突が倒壊する。
第6章『夜明けの煙突』では、日の出前に高鈴山に登り、夜明けの大煙突を撮影する。
夜明け前の早朝に、大煙突の撮影だけを目的として、標高623mもある高鈴山に登るのは相当な体力・行動力がなくてはとても出来ないが、煙突にかける情熱と、それだけの価値のある、人々をとりこにする魅力が大煙突にある。
第10章では、日立鉱山が閉山してから間もない、本山を見る事ができます。
道路の両端にある建物は、鉱山アパートでしょうか。
この映像も、鉱山時代の面影のある本山が見れる貴重な映像です。
道路の両端にある建物は、鉱山アパートでしょうか。
この映像も、鉱山時代の面影のある本山が見れる貴重な映像です。
――― 大 煙 突 空 撮 !! ――― |
大煙突の勇姿を後世へと残すべく始まったビックプロジェクト。
それは大煙突をヘリで空撮して映像として記録するという、まるで冗談を言っているんじゃないだろうかと思うような、誰も予想する事ができないとても信じられない大胆な発想だ!!
一体この空撮の為にどれ程の資金を投資しているかは、このVTRからは知る事はできないが、相当な勇気と決断力がなくては実現できないであろう。
しかし、大煙突を記録として残すとはいえ、本当に大煙突空撮という偉業を成し遂げてしまうのだから、樫村博康氏というお方はほんと凄い!!
この大煙突の頂上の標高は461m。製錬所は、はるか325mの眼下にある。 かつて、厚さ20cmしかない大煙突頂上の縁に立った男がいる。溶鉱炉担当の若い服部春二である。 服部は、煙突の中に設けられた簡易昇降機(ホイスト)で頂上に出て無鉄砲にも支えの無い縁に立った。 気がつくと服部は靴の長さより狭い場所に立っていた。 「万物はまさに眼下に展開している。体はかすかに揺れているような気がする。足元に吸い込まれるようだ。こわい。これはいけない!」 雷のように衝撃がひらめく。静かに両膝を曲げ、腰を低くした。両手をやっと、足首の外側に手をつき、足先で作業床の板をさぐりあて離れられた。 『天馬空を行く ~久原房之助物語~ 』

また、大阪にいる事の多かった※宮長平作(大煙突を設計)に代わり現場監督を務めた尾崎武洋は、工事途中に高い煙突の頂上で昼寝をして、その豪胆ぶりが評判になった男だった。

―――宮長平作とは?――― |
続いて、世界一の高さの大煙突建設を成功させた。
石岡発電所↓
http://www.net1.jway.ne.jp/yama.seiji2/isioka/isiokah.html
1993年2月19日 大煙突倒壊 |
日立を象徴するシンボルである大煙突は、竣工から78年が経過し、老朽化が進行していました。
保存の動きはあったようですが、バブル崩壊直後の事で、どこも出資できなかったようです。
費用的にも、建造費用と同等の費用が必要と試算され、市民レベルでは到底不可能でした。
そして、1993年2月19日、日立大煙突はついに倒壊します。
竣工から78年、老朽化により倒壊し、長さはこれまでの3分の1になり、かつての大煙突の勇士の面影はなく短くなってしまいました。
当時の日立市民は、日立大煙突倒壊には落胆した事でしょう・・・


しかし!!! |
かつての日立大煙突の迫力のある勇士は見られませんが、この日立台煙突ドキュメンタリーDVD『大煙突讃歌』の中では、倒壊以前の日立台煙突の迫力ある勇士が今でも活きています!!
日鉱記念館でまだ販売していると思いますので、日立市民や日立鉱山に興味のある方は日鉱記念館にお立ち寄りの際に、日立鉱山写真集『閉山 日立鉱山に生きた人々』と併せて、是非買ってみてください。
『閉山 ~日立鉱山に生きた人々~ 』


