笠間市(旧岩間町)の難台山のふもとには『首洗いの滝』というのがあります。
名前からしていかにもでそうな強烈なインパクトのあるやばそうな滝です((((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル
名前からしていかにもでそうな強烈なインパクトのあるやばそうな滝です((((( ;゚Д゚))))ガクガクブルブル
ある日『茨城ネットテレビ』という茨城限定の動画webサイトでこの首洗いの滝の動画を見つけました。
その茨城ネットテレビによる「茨城心霊ゾーン2002」という動画では、この首洗いの滝では様々な怪奇現象が目撃されているという。
そして、その動画では首洗いの滝の取材中にラップ音のようなものが流れ、スタッフの一人が体調不良を訴え錯乱状態になってしまい、取材を断念してしまう。
その最中なぜか、緊急事態にも関わらずリポーターが裏で笑っているのが気になるが・・
(ってかこれ全部や○せだろ!?w)
そして、霊能者の『立原美幸』という人の解説では、この霊は落ち武者の霊で成仏できずにずっとそこにとどまっているという・・
その茨城ネットテレビによる「茨城心霊ゾーン2002」という動画では、この首洗いの滝では様々な怪奇現象が目撃されているという。
そして、その動画では首洗いの滝の取材中にラップ音のようなものが流れ、スタッフの一人が体調不良を訴え錯乱状態になってしまい、取材を断念してしまう。
その最中なぜか、緊急事態にも関わらずリポーターが裏で笑っているのが気になるが・・
(ってかこれ全部や○せだろ!?w)
そして、霊能者の『立原美幸』という人の解説では、この霊は落ち武者の霊で成仏できずにずっとそこにとどまっているという・・
では、その首洗いの滝がそんなにやばいのか早速現地調査ですw
『茨城県の滝』という茨城の滝を紹介するサイトを参考に、首洗いの滝の場所を探します。

団子石線を途中、林道難台線の方へ右に行きます。


途中、分岐を右へ。


少し行くと、左手に通称『沢入りの滝』が。


ここからは先は道がデコボコしていて道が悪いので、歩いていきます。
(この滝の前に駐車スペースがある)途中なぜか、ここだけ数メートルの区間だけ中途半端に舗装されている。


そして、そこからまたしばらく行くと左側に看板が!
首洗いの滝へは左に曲がるように書いてありますが・・・


首洗いの滝へは左に曲がるように書いてありますが・・・


ここをひたすら進めというのか・・(; ̄Д ̄)


ここからは不明瞭な道をわずかなふみ跡を頼りに沢沿いに歩いていきます。


誰かが竹で道を作ったのか。
しかし、余計に歩きづらいので竹を避けながら歩いた・・

しかし、余計に歩きづらいので竹を避けながら歩いた・・

丸太の一本橋を渡って右に曲がります。
この一本橋を渡るにはバランス感覚が要ります。
ここまで来ると滝の音がしてきました。

この一本橋を渡るにはバランス感覚が要ります。
ここまで来ると滝の音がしてきました。

丸太を渡ったのはいいが、道がない。
ここからは、滝の音がする左の方向へ進んでいきますが、自分の通ってきた道を覚えていないとマジで遭難しそうな気がしますw

ここからは、滝の音がする左の方向へ進んでいきますが、自分の通ってきた道を覚えていないとマジで遭難しそうな気がしますw

そして、いよいよ首洗いの滝にたどり着きました!! |

薄暗いせいかちょっと不気味さはあるが、特にコレといって変わった様子もなく普通の滝です。
本当に落ち武者の霊はでるのか!?
本当に落ち武者の霊はでるのか!?



最後の写真の右の方に球体のようなものが反射して写りこんだ。
落ち武者の霊か!? ただの水滴か!?

落ち武者の霊か!? ただの水滴か!?

特に異変もなく、一通り写真を撮影すると引き返す事にした。
果たして本当にこの滝で首を洗っていたのか!?
実際にそのような事が歴史上にあったのか調べてみる事にした。
この首洗いの滝については資料が皆無で難航したが、やっと一冊だけ『首洗いの滝』に関する記述している本、『いわまの伝え話』という本を茨城県立図書館にて見つけました。
首洗いの滝の本当の真実とは!? |
以下参照↓↓
首洗いの滝 難台山のふもとの黒丸という所に、山脈の自然石を伝わって流れる長さ約8㍍くらいの滝があります。これを「首洗いの滝」とよんでいます。 今から600年余りの昔、難台山城に立て篭もった南朝方の大将 小田五郎藤網の軍勢と、それを一気に攻め落とそうと3000余騎の大軍をひきつれて、館岸山の朝日城に対陳する北朝方の上杉朝宗の軍勢が、入り乱れて戦いました。 両軍の勇気のある大将は、この戦いで手柄を立てて、自分の家名を挙げようと大音声(だいおんじょう)に名を名乗りながら、相手の大将の首を討ち取ろうと競って先陣へと進みました。 続く家臣の勇士たちも負けずに戦場を駆りめぐり、火花を散らしての戦いに両軍とも傷を負ったり、たおれたりする者数多くいて、水を求める人々で山中の池がまっ赤に染まりました。人馬は倒れて、その死体を乗り越えて戦う戦場の悲惨さ、凄まじさは目をおおうばかりでした。 小田五郎藤網は常に7人の影武者を使い、その行動は常に神出鬼没で敵方の意表をつく作戦にでましたので上杉勢の肝を冷やすなど善戦しました。 けれども上杉方のいれかわり立ちかわりの新手の攻撃に手を焼き、その上に兵糧攻めにあってついに敗れました。元中5年(1388)7月19日城に火を放ち一族と共に腹を切って討ち死に落城しました。 この滝は、戦場で討ちとった名のある大将や勇将の血と汗と泥に汚れた首を洗ったのでその名がつけられました。 そのころの侍は、戦で手柄を立てる事によって身分の保証がされていました。戦で名のある大将を討ち取りその首を御大将に差し出して首実検を受けてその働きによって領地などの配分を決められたといわれてます。 己の傷の手当てにかかずらうことなく、敵の大将の首をこの滝で洗い浄め、鎧の袖に包んで大事に持ち運んだであろう鬼気迫る光景がしのばれます。 新緑に彩られる美しい山肌を縫いながら、サラサラと心地よい音をたててこの滝川は、過去の悲しい歴史の足跡などさぐるすべもない程、静かで美しい渓谷のたたずまいでした。 (いわまの伝え話 昭和61年12月20日発行 茨城県立図書館所蔵)
敵の大将の首を切り取り、鎧の袖に包んだとは今の世では到底考えられない奇妙な行為だ。
この首の中に、小田五郎の首もあったのだろうか。
この首の中に、小田五郎の首もあったのだろうか。
まとめ
首洗いの滝とは、難台城攻防戦で破れた小田五郎の軍勢たちの、赤く血で染まった大将の首を洗っていた暗い歴史のある滝でした・・・
首洗いの滝とは、難台城攻防戦で破れた小田五郎の軍勢たちの、赤く血で染まった大将の首を洗っていた暗い歴史のある滝でした・・・