これまでの9年間・その1 | やっぱり馬が好き~ふろむオーストラリア~

これまでの9年間・その1

※以前にも書いたかもしれないけど本人覚えていないのでまた書いてるかもしれません。あしからず。


運命ってなんだろう。


この35年間いろいろな人に出会ったけれど、今の私を支えているのはこれまでに出会った人々だと思う。


海外競馬についてのwebを教えてくれた元カレ。そのwebにたまたまゴールドコーストの競馬学校の広告があって、とても興味があって行きたくてしょうがなかったので、遂にカレと別れてオーストラリアに来てしまった。

もしあの時元カレがあのwebを教えてくれなかったら、私は一生あの競馬学校を知らずに元カレと結婚し平凡な主婦だったと思う。


そしてその競馬学校を作ったM女史。彼女の「この国では競馬も乗馬も関係なく、『馬を学べる』から、とにかくいらっしゃいよ」という言葉が無かったら私はオーストラリアに渡っていなかっただろう。


競馬学校在学中に、実は私は旦那に会っていたようだ。後で旦那に聞かされた。


学校の隣に「マジックミリオンズ」という競走馬のセリをする施設がある。1月に行われるセリは国内最大でゴールドコースト中が湧き上がる。前年やそれ以前にそのセリで売られた馬だけが参加できるレースもゴールドコースト競馬場で開催され、去年のレースでは私は2頭引いた。そのうち1頭はあとわずか! というところのハナ差で敗れ、勝者と敗者の違いをまざまざと見せつけられた日だった。


あ、話がずれちゃった。


競馬学校の在学中、1月のマジックミリオンズのセリで働く機会があった。


マジックミリオンズの敷地内には厩舎が30棟くらいあって、1棟に30くらい馬房がある。セリに参加するスタッド(牧場)にそれぞれ厩舎があてがわられ、セリの1~2週間前くらいにセリにかけられる馬が到着してその後バイヤー達が品定めに来て、そして当日にそれぞれ売られていく。


学生の私たちは売られる1歳馬の扱いが出来るわけではないので、お世話になるスタッドの人達から「あれやれ」「これやれ」といろいろ指示を受けて働かせてもらう。


これは「バイト」では無い、単に経験させてもらう事が目的だ。


あの時は本当に暑かった。最高気温40℃くらいになって、立っているのもやっとだった。

朝はスタッドのスタッフが馬を連れて歩きまわるので、学生の私たちは馬房掃除。早い話ウンコ取り。次いで、バイヤーが馬を見に来るので馬が馬房から出ると馬房の中のオガコが外に散らかるので掃き掃除。

私達が出来るのはこれくらいだったけれど、バカがつくほど真面目な私は一生懸命働いた。


馬が外に出ればフォークとバケツを持って中の糞を取り、散らかったオガコを掃いて馬が帰ってきたら扉を閉めてあげた。 暑いので馬もたくさん水を飲むから時々水バケツのチェックもした。特に「やれ」って言われた訳でもなく、自主的に働いた。


この時、旦那はどこかしらで私を見かけたようである。

そして とある調教師の目にも 私が止まったようである。

「there is a Japanese girl who never stop working (働き続けるジャパニーズ・ガールがいる)」と。これもその調教師からあとで教えてもらった。

確かに周りを見るとただ突っ立ってるだけの生徒もスタッフもいたんだけね。 別にそれほどやらなくても良かったんだけど、これは私の性分なのだ。


両親が結婚する前から伯父(故人)が経営する寿司屋で父は働いていたんだけれど、幼稚園の頃(上がる前からかもしれない)からお正月の忙しい時期は兄と2人でお店を手伝っていた。まぁそれが20数年続いたんだけれども、母からは「常に何か手伝える事を探しなさい」と言われていたので、その癖が後生にも残っただけの話である。


そしてその調教師から2年後に「うちで働かないか」とスカウトされて、彼の元で1年ほど働いた。

その調教師こそ、のちに旦那が勤める事になって2年連続ゴールドコーストのリーディングトレーナーになった人なんだけども。


人の縁というのはほんとうにおもしろい。


旦那に、「えっ じゃぁ あの時からアンタは私を知ってたの?」って聞いたら、「うん」だって。


2002年9月に学校を卒業したんだけど、卒業間近まで私の進路は決まっていなかった。 学校が、競走馬の厩舎を作ってレースを始める事に決めたのが7月くらいの事で、私達のクラスの生徒の有志がそれの手伝いをした。もちろん私も加わった。 1人のインストラクターが競走馬を持っていて、彼の馬をブリスベンで引いた事もあった(しかも勝っちゃった)ので 「じゃぁ卒業したら厩務員として働くからワーホリで戻ってこよう」と決めたのである。


私の「厩務員への道」はここから始まった。


2003年2月の終わりに再びオーストラリアへ戻って、たまたまの偶然で私は旦那と出会った。 私が働き始めた
女性調教師と、旦那のとーちゃんは同じ建物を使っていた。その時旦那のとーちゃんは膝を悪くしていたので旦那が急きょ手伝いに来ていたのだ。


それから旦那と付き合う事になり、ワーホリのビザが切れるから1年契約のビジネスビザを取ろうと準備していた所に旦那から「結婚した方が、早くね?」と持ちかけられたので その波に乗っちゃったのであった。


ここまで振り返ると、実は旦那に出会わなかった可能性もあるわけで、いやぁ人生とは本当におもしろい。


なによりも、私の両親が私のオーストラリア行きに断固反対していたならば、私の人生は全く違ったものになっていただろう。


10月11日は、そんな父の75回目の誕生日であった。