皆さんはどう思っているのでしょう。僕が影響を受けた音楽の変遷やそれにまつわるビジネスをなぜ構築できたかを。


松浦勝人、あるいはmaxmatsuura 僕の音楽史はどういう変遷をたどってここまで来たのでしょう。


と、同時に大学生で事業を始め23才でavexgroupをなぜ立ち上げていくことができたのか。。


不思議ではないですか?


いまさらもうエイベックスの立ち上げの話など聞きあきたという人もいるかもしれません。


その場合は長いので読まなくていいです(笑)



ただ、僕は20歳で大学生の時に会社を作り数々の苦難(いま思えば大したこともないようなものかもしれませんが当時は大変でした)を乗り越えいつなくなるかもわからない零細企業を設立したわけですからそれはもう苦難の応酬なんてものではなかったです。


まだインターネットも普及していない20年前、僕にはパソコンよりも東芝のワープロが最大の武器でした。(貸しレコード店時代に頼まれて全国に発送していたディスコ用の12inchの解説をワープロで書いていたから)
使い方は完璧にマスターしていました。逆に言うとそのせいか今でも僕はローマ字打ちをしません。カナ打ちです。会社でも僕以外カナ打ちの人は知りません。



会社を起業した時の事は「松浦勝人の起業史 」に書いたのでなぜ音楽にはまっていったのかということを初めてお話しましょう。


今まで書いてきたことと重複する部分もあるかとは思いますがご容赦ください。


横浜市神奈川区三ッ沢小学校に通っていた僕は家にあったステレオに夢中になりオーディオお宅に早々となっていきました。


かけるレコードは歌謡曲ばかり。当時の流行歌ですから岩崎宏美、野口五郎、フィンガーファイブ、山口百恵、桜田順子等お年玉はこのころすべてドーナツ盤(今でいうシングル)に消えていました。ありとあらゆる歌謡曲を買っていました。高学年になるにつれ幅も広がりお正月には今の大人買いじゃないけど手当たり次第に歌謡曲を買って聞いていました。当時はラジオではベストテン番組がたくさんやっていて特に文化放送の全日本歌謡選抜は毎週日曜日かかさずきいていました。不二家ベストテンとか東京FMの土曜午後の邦楽、洋楽のベストテン番組も欠かさず聴いていました。


そして,それを一覧表にして学校に持っていって威張っていた気がします(笑)。従って小学生の時期はひたすらラジオによる情報収集によって歌謡曲を徹底的にリサーチしていました。このことはあとで僕のビジネスに多大な影響をユーロビートという形で与えることになります。


そして中学受験に失敗した僕は公立の中学に行き、次は洋楽と思いきやフォークにはまっていきました。もちろんこのころからギターを弾き始め僕にとってのヒーローはかぐや姫、南こうせつ、伊勢正三、ちょうど再結成があった時でした。そして伊勢正三、大久保一久率いる「風」にはまりました。


早稲田大学でやった「風」のおそらく最後ではなかったコンサートに現エイベックス執行役員の佐藤朝昭君といったことを覚えています。


そして、皆が通る道「THE BEATLES」へと深く傾倒していきました。当時はまだバンドなんて大人からは白い目で見られ中学の文化祭でバンドをやるというのは30年前では考えられなかったと記憶しています。


しかしそこはずるがしこく??PTA会長の息子をサイドギターに入れなんなく文化祭出場を果たしました。

僕は中学三年間はギターで、ビートルズを卒業し、これも誰もが行く道ディープパープル、レインボー、マイケルシェンカ―グループ、ボストン、ウイングス、レッドツッペリンなどを演奏し中学を卒業しました。


高校にはいると、ギターはたくさんいるけどドラムがいなくて、僕はドラムへと転向しました。高校三年間文化祭にバンド出てたのは学年中僕一人でした。


それはよくあることですがバンドの仲間とうまくいかなくなったりして、三年生の時に学年で一番うまいメンバーを集めたバンドを作ってしまったので一組しか出ず、結局一年生から文化祭に出ていたのは僕だけということになっただけですが。手前みそですがかなりいけてたバンドだったと思います。よくライブハウスでもやりました。


そして大学入試、僕は当時付き合っていた子が推薦で短大が決まっていたので何が何でも現役で受かりたくて、浪人をせずにそのまま日大へ(笑)


一方バンド仲間は皆、早慶や国立目指して浪人。かくしてこの最強バンドは解散せざるを得なくなったのです。


大学に行った僕は軽音楽サークルやら何やら回ったもののパッとせず「どーしよーかなぁー」と思っていた時に大学の友人に誘われた渋谷のディスコに行きダンスミュージックというものに初めて触れその虜になっていったのです。


この時点ではもちろん自分の職業が音楽系になるとは全く思っていませんでした。


大学2年間で毎日のようにディスコに行きDJブースの前に陣取り曲名をチェック、当時はディスコによっても違ってはいましたがまだHOUSEというジャンルはなくていわゆるビルボードではやっているような曲のリミックスやエクステンデッドバージョンなどがかかっていてDJも曲の合間にMCを入れるというのが通常でした。六本木リージェンシー、スクエアビルでネペンタ、特に好きだったのがレベジャポネスクで中村NAOさんがまわしてたハイエナジーにはやられました・・・。


渋谷ではキャンディーキャンディーに鈴木しょう治さん、ラスカラにパパさん、スターウッズに・・・新宿はXENON、ニューヨークニューヨークに松本みつぐさん、浜田さん 今とは違いお店専属のDJがまわしていた。当然僕はただの大学生。彼らとは口もきけない。


それが数年後には全員と仲良くさせてもらうようになるとは当時は夢にも思いませんでした。


18歳当時、当然僕は貧乏学生でレコードを買う金もなくバイトにいそしみ1280円のディスコ用12inchレコードを当たり(いい曲)であってくれーと必死の思いで買い、視聴もできなかった当時タイトルとアーティストなどを見て買いあさるうちにある法則に気がついたのでした。それがそもそものエイベックスの原点かもしれません。


その話もまた今度。


このあとユーロビートからマハラジャコンビレーション、ジュリアナテクノ、HOUSE、ジャングル、パラパラ(ユーロ)、トランス、ハードハウス、JPOPとさまざまに自分が扱う音楽が変化していく過程の中で世界のレコード業界、日本のレコード業界、テレビ、マスコミ業界、そして芸能界等に直面し、全く何の知識もなく飛び込んで行った自分はそこでも様々な苦悩と葛藤がありました。



ふぅー疲れた(笑)



気が向いたら 松浦勝人の音楽史 その2  に続くかも(笑)


このテーマは不定期です。。。あしからず。。