松浦勝人の起業史 4 からの続き


そして、ある時、運命を変える出来事が起きる。


ある貸しレコード店のオーナーが僕のサイドビジネスであった輸入盤の卸しを共同で別会社にして一緒にやらないかという誘いだった。


当初は、自分ひとりで十分やれていたので断っていたのだが、あまりの熱心な誘いに半ば強引に一緒にやることになってしまったのだった。

一緒に作った会社の名前が「エイベックス・ディー・ディー株式会社」
そう、今のエイベックスの誕生であった。


1987年10月のことだった。(正式な会社の登記は翌年1988年の4月11日である)


松浦勝人23歳になったばかりのときである。


自分の趣味であったダンスミュージックを徹底的に研究し、誰にも負けない知識を身につけ、それを商売に結びつけた。自慢でもなんでもなく、やはり僕にしかできないことだった。


それは、たとえ僕と同じくらいの知識、もしくはそれ以上の知識を持っていたとしても、それを商売にして、全国のレンタル店にばら撒くノウハウを持っている人間は誰もいなかったということである。


あっという間に取引店舗は全国のレンタルレコード店となり、当時6000店舗近くあったレンタル店に僕の書いた解説付きのCDや12インチシングルが全国のレンタル店に並ぶこととなった。


売り上げは倍倍ゲームで上がっていったが、僕にとってはあくまでエイベックスはサイドビジネスであり、本業はやはり自分の小さなお店で、じかに消費者と接することのできるお店というものが僕は好きだった。
レジにたって実際のお客さんの行動を僕はいつもずっと見ていた。
その経験が後に、消費者が何を求めているのかという視点にたったエイベックスの商品つくりに役に立っていくとはそのときは思いもしなかった。なにしろ、ただのレンタル店への輸入盤の卸売業者がレコード会社になるとは夢にも思わなかったからである。


僕らはレンタル店への輸入盤卸からさらに発展させ、輸入盤店(HMVやタワーレコード等)へも商品を卸すことを検討していた。
非常に薄利多売であったが、若かった僕はそこにも果敢にアタックし、当時、出店ブームであった大型輸入盤店への卸へも参入することに成功した。


僕は相変らずダンスミュージックに夢中で当時流行していたユーロビートに関してはそれこそ日本一の知識があることを自負していた。
とにかく知らない曲はなかった。それも輸入卸をしていたので日本中のどこの誰よりも早く、音源を聞くことができたし、とにかく大好きであった。

レンタル店をはじめ、大型輸入盤店へも大量に商品を供給していたことから、エイベックスは世界的にダンスミュージックに強い会社として認知されていった。


そんなある時、イタリアのインディペンデントレーベルから、商品ではなくて、日本国内でオリジナルのCDをリリースする権利を買わないかという話が舞い込んで来た。僕たちは喜ぶと共に、非常に悩んだ。
CDやレコードの輸入をして堅実に商売を続けていくか、権利という未知の世界のものを買ってレコード会社としてメーカーになっていく道を選ぶか・・・・。

若かった僕らは結局周囲の大反対を押し切ってメーカーになる、すなわちレコード会社へなっていく道を選んだのであった。

1990年松浦勝人26歳のときであった。


スーパーユーロビートの発売、すなわち

avex trax

の誕生である。


しかし、この時点ではまさかエイベックスが上場企業となり、これほどのアーティストを抱えるレコード会社になるとは僕は夢にも思っていなかった。


松浦勝人の起業史 6 へ続く