松浦勝人の起業史 3 からの続き 


何より、このレンタル店の成功の時点では、その後僕がエイベックスという企業を設立し、社長になるなんてことは夢にも思っていないのである。


僕がやっていたような小さな貸しレコードの専門店は今ではほとんどないだろう。今ではビデオレンタルや本屋さんといっしょになっているケースがほとんどで、それも100坪を超える大型店が主流だ。


しかし、今から20年前にはレンタルレコード専門店が存在し、専門店というにふさわしくしものすごい幅広い品揃えの店も中にはあった。自分の店はその中でも突出した専門店で邦盤から輸入盤まで、果てはクラッシックから演歌まで、新譜に至っては入荷しないものはないという品揃えの店であった。まして人気アーティストの新譜の発売ともなるとそのアイテムの仕入れ枚数は軽く数百枚を超え、発売日の前日、いわゆる店頭入荷日に借りに来ても絶対に在庫を切らせないというポリシーを徹底していた。


そして何よりの特徴は輸入盤のレンタルであった。邦盤は普通に発注すればどんな店でも、商品を仕入れることは容易だが、輸入盤となると自分の足で渋谷や新宿の輸入レコード専門店に足を運び、限りなくあるアイテムの中から自分の耳だけを頼りに仕入れを行わなくてはならない。これはちょっとやそっとじゃ出来ないことだった。まして20年前である。


今とは違いインターネットもなく、情報なんてものは皆無に等しく、ただただ自分の耳と知識だけの勝負だった。はずれを買わないように、また、誰も知らないような傑作を見つけて、仕入れるためにほぼ、毎日のように輸入盤店に通った。


もちろん、買ってきて店頭に並べただけじゃ誰もそんなわけのわからないレコードやCDは借りてはいかない。みんなが借りたくなるようなキャッチコピーを考え、細かい解説キャプチャーをつけ、いろいろなジャンルに仕分けしたり、様々なランキングをつけたりして店頭に置くのだ。今では当たり前だがアイウエオ順にしかレコードが並んでいなかった当時ではこんなことすら画期的なことだった。


僕にしか出来ないことを20歳そこそこの僕は見つけることが出来た。


こんなささいなことが・・・、今という時代では当たり前のようなことが、当時、20年前には僕にしか出来ないことだったのである。


今でもそうなのかもしれない。僕はいつも自分にしかできないことを探している。
自分にできないことはしない。自分にしかできないことをするのだ。


店の、そして僕が最初に作った会社である「株式会社ミニマックス」の売り上げは順調に推移していた。


しかし、僕の中では常にいつくるかもしれない再開発の通知や、近所に巨大な複合レンタルの競合店の出店があるのではと常に何かにおびえる毎日だった。


そんな中、全国から尋ねてくる貸しレコード店のオーナーの一人が僕の店の輸入盤の多さに興味を持ち、「自分の店の仕入れを代行してくれないか」と話を持ちかけられた。常々、15坪の自分の店だけでは売り上げにも限度かあると感じ、ものすごい勢いで増えていたレンタル店に対して何か商売ができないかと常々考えていた僕は、この提案にすぐさま乗った。そしてすぐさま全国の貸しレコード店に「輸入盤を扱わないか」とダイレクトメールを送ったのだった。


狙いは的中し、すぐに30店舗の輸入盤の仕入れを代行するようになった。


末端の店舗からひとつ川上に上がった問屋業の始まりだった。この問屋業、すなわち卸しといわれる商売がのちのエイベックスというレコード会社に発展していくとはその時は思いもしなかった。


この卸売業も順調に推移し、50店舗くらいの仕入れを任されていた。店のほうは相変らず好調で、純粋なCDのレンタルの売り上げだけで15坪の店にもかかわらず月間900万円を突破していた。粗利益が80%近かったので正直、ぼろ儲けに近かった。


そして、ある時、運命を変える出来事が起きた。








松浦勝人の起業史 5  へ続く