松浦勝人の起業史 1  からの続き


年が明けた頃(大学3年の正月、21歳の時)、オーナーからじきじきに話をいただいた。


オーナーいわく、単なるバイトだった僕と50対50の出資で新しい会社を作って一緒に経営しないかというものだった。


通常のオーナー経営者であったら、便利な僕をl利用して、自分の利益を追求するため、僕のようなバイトはいいように使われるのが普通だったと思う、しかしそのオーナーは僕とイーブンで、それも僕を学生ながら代表取締役にして、いっしょにもう一店舗貸しレコード事業を始めたいと真面目な顔をして言うのだ。店も閉店したあと、二人で車の中でとことん話した記憶がある。


最初は戸惑った。当時僕は大学3年で春先からは就職活動をする予定だった。しかしながら愛着がわいていた貸しレコード店をやってみたいという野心もあった。


僕は高校時代、それなりの進学校に通っていたが成績は悪く、自分の将来なんてどうせ月並みなものだと思っていた。
毎朝、高校の正門をくぐるたびに、自分の将来なんてどうせろくなもんじゃないだろうと思っていたくらいだ。


大学に進んでも一、二年生の時は月曜から金曜までは大学の友人と合コンやバイトに明け暮れ、いわゆる大学生活をミーハーに楽しみ、土日の週末は高校時代の地元の友人と暴走族まがいの走り屋と化して箱根の旧道やターンパイクをイニシャルDさながらドリフトをしに行ったり、湘南の西湘バイパスで最高速度に挑戦したり、横浜の富岡でゼロ4をしたりの二重生活をしていたものだ。


そんなぼくが変わったのはやはり、前述の貸しレコードのバイトをはじめてからだ。


2年までで、要領よく大学の単位をほとんど取ってしまっていた僕は3年生になると大学にはほとんど行かず、貸しレコード屋のバイトに明け暮れ、いつしか大学の友達とも、地元の友達とも一時的ではあるが付き合いは薄くなっていった。

そんなおりに、共同経営の話を突然、いただいたものだからびっくりした。


だが、高校の正門を毎日くぐりながら将来の自分の姿を想像できず、どうせろくなもんじゃないだろうと思っていた僕は、この話に戸惑いを感じながらもその決心を固めるのにさほど時間はかからなかった。


うちの親父は小さいながら自営業で中古車販売をしていた。
僕の気持ちのどこかで、もし貸しレコード屋を失敗しても最悪親父の会社を継げばいやという安易な気持ちがあったことも否めない。

かくして、僕はそのバイト先のオーナーと共同で株式会社ミニマックスという会社を設立し、無事横浜の上大岡に僕にとっては一号店である友&愛上大岡店をオープンさせるのであった。大学4年の6月6日のことである。


最初の資金は自分の親父から確か700万を借り、バイト先のオーナーからも700万を出資してもらい計1400万で細々と店を始めたのである。


しかし、僕が店をオープンした直後に貸しレコード店はレコード会社との係争問題が勃発して、その結果次第では、その先どうなってしまうかわからない、つまり廃業に追い込まれる可能性も否定できない状態となってしまっていた。

その上、僕が借りた、店舗は横浜市の再開発計画の地域に指定されており、その店舗の賃貸契約も借り手の僕には非常に不利で、その再開発が決定次第、有無を言わせずすぐに、出て行かなければいけない契約であった。


しかし僕はその立地条件のよさに引かれ短期決戦でもとその場所を選んだのであった。


しかもその上大岡という駅は横浜市でも横浜駅につぐ位の乗降客数の多い場所で、当然、僕が出店した時にはすでに競合店である貸しレコード店は同じ駅に4店舗もあり僕の店は5店舗めの後発という厳しい出発であった。


当時、レンタル店は出店ラッシュで、また、レコードとCDの端境期で、どの店もCDがどのくらいのスピードで普及するのか、はたまたレコードがまだまだしばらくは続くのか微妙な時期で、ほとんどの新店舗は相変わらずレコード主体で出店していた。



そんな中僕の店はほとんどCDという冒険的な仕入れを行いオープンした。




松浦勝人の起業史 3  に続く