東京での思い出は?

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さぁて何でしょうね?


ずっと東京に住んでますからね。
(「東京での」って聞かれてもね。。)



割と最近。思い出とはちょっと違うんですけど6月のこと、つまり先月の話なんですけど

2ヶ月ぶりに所用である人と会う機会がありました。


その人と会うのはその時で2回目です。つまりは4月に初めて会ってそれきりでした。


その初対面の時には挨拶と写真を1,2枚撮ったくらいでした。


瞳と肌が透き通るような美しい人だなぐらいの印象でした。




先月2回目にお会いした時は、(以下、この通りの会話でした)



「お久し振りですぅ〜」


「え!自分のこと覚えててくれたんですか?」


「イケメンさんのことはちゃんと覚えてますよぉ〜」


(え!俺ってイケメンなの?!ブハァッ[笑])


「俺も〇〇さんのこと覚えてましたよ!美人さんなんで」









来たっ!














モテ期到来💖













彼女は傍でいそいそと仕事をしています。






私は不意に彼女の手許に目をやります。





左手薬指に…













キラリーン✧




と光る余計なモノが…(ブハァッ爆)









ぷるぷる…








ふるふる…







ぶるぶる…














ちょっと慰謝料として五百圓くらい持って来いやぁ!

(慰謝料少なっ![爆])


とその時、軽くそう思いました。(笑)













訳無いわ(泣)






(【訳無い】:いとも容易くの意味。ここではいとも容易く恋破れたの意。)













まぁ、そんなことがありました。






ほんと、どうでもいい話でしたね。





本当の思い出話はしたくなったら、またその時にしますね。





どうでもいいと言えば…






注文していたFCGRのフレットが音屋さんから届きました。




こんな感じです。


こう記されてます。


✰SP-SF-03S:国産フレット226に類似した形状です。

✮SP-SF-05S:現行ギブソンの純正製品に類似した形状です。

✯SP-SF-07S:ジムダンロップ6105に類似した形状です。


それぞれに24本入りみたいです。


一本のギターでこれら3種類使います。



何もそんなことしなくても良いんですけど、ちょっとでも特別感を出すための措置みたいなもんです。
(婚約指輪も特別な人に特別な場所でパカッと開いてやるじゃないですか?!)


このフレットを打つギターは…


指板ラディアスもナット付近でフェンダーの7.25Rから始まって円錐状に広がり、

22フレット付近でギブソンの10.00R(誤差の範囲内ですけど24Fで10.25R)で終わりますからね。


13フレットで一段細いフレットに変わるのも、ある意味、理に適ってると言えば適ってるのかもしれません。


そもそもコンパウンドラジアス(円錐指板)自体が不要論を唱える人もいますけどね。


まぁ、それも、それはそれで特別感の演出のひとつですよ。


差別化です。


左手の薬指に無駄にお金をかけるようなもんです。(五百円分、心の痛手が尾を引いてまだワケ分かんないこと言ってます)




はて、ネタを振ってて忘れてしまいました。


本当に言いたかったことが他にあったような気がしたんですけど、何でしたっけ?



そうそう。



前回、私は人を不快にさせかねない単語を使いましたよね?



「脳死状態」


それを使っても人を不快にさせないようなレトリックを使わねばなりませんでしたが、敢えてそうしませんでした。



★そうすると話が長くなり過ぎるからなのと


✦不快になってるのに読み続けてる人にこれ以上、当ブログを読んでほしくはなかったからです。



ところで “ レトリック ” という言葉の意味を知った当初、理解するのに私は一年くらいかかりました。


意味自体は辞書に載ってますが、具体的な定義と用法が理解不能でした。(今にして思えば単によく知ろうとしなかっただけです)



定義とは、その言葉が示す範囲を「ここからここまで」と区切るという意味があります。


単なる “ その言葉の意味するところ ” とはちょっと違います。



(きっと少なくない人数の人が)

知らなかったことでしょう?




そういう意味で、レトリックの定義がどこまでの範囲内で、実際の用法としてどう使えるものなのか私にとって不明でした。




これは超大まかに言うと、アリストテレスから始まった詭弁論のことですね。

レトリックとは修辞学と訳されてます。


他の言葉で言い換えると、


✫物は言いよう

✪人を丸め込ませる為の論法

✭表面的に取り繕って人をだまくらかす言い回し、乃至はその為に着飾った美辞麗句


そんなところだと思います。


それでこれって、一見するとなかなか悪い事のように見えますが、西洋文明では至って普通のことですよね。



日本に目を向けると…


今でも田舎では玄関の鍵をかけなかったり

落ちてる財布がそのまま交番に届けられたり

「人は本来皆善良なのだからそんな気違いじみた途方も無い陰謀論など嘘だぁっ!!」



とか子供じみたことを言って、


そんな幸せなことがまかり通ることのほうが、世界の常識から見たらかなり特殊なことなんですよね。






それで話は、“ 脳死状態 ” の一件に戻しますけど



私って自分が「脳死状態」と言っていいくらいに頭が悪かったんですよ。相当に悪かったどころの話ではありません。



本当に絶望的でした。

(どんなに悪かったか機会があれば述べますよ。今でも脳の神経が巧く連結していない感が拭えません。実感してます。)



頭が悪い事に対しての苦労を人並み以上には知っているので、ちょっとした当事者気分でこの言葉を使ってしまったというのもあるんでしょうね。



頭の悪い人の治し方の一つとしましては、


自分で意味を理解していない洗い浚いの言葉、単語を紙に箇条書きに書き出して辞書で調べまくる。


それも


概念化するまで一つひとつの言葉の意味を、
すべての使い方の意味でよくよく勉強する


ということをするんですね。



これが頭が鈍くなっている。または働いてない頭への対処の一例です。



その昔、ある曲の歌い出しで

「辞書でも引かなきゃ喋りも出来ねぇ!」

と歌っていたバンドがあったと思いますが、


あれはインテリの頭でっかちオボッチャンを揶揄した表現ではあろうですが、


その言ってる事自体は皮肉にも真実でしたね。


いや、事実はそれよりも酷くて、「喋りも出来ねぇ」どころか、「物を(上手く)考えることすら」出来ないでしょうね。



言葉の意味を知らないってことは。





もうひとつには


✦不快になってるのに読み続けてる人にこれ以上、当ブログを読んでほしくはなかったからです。



この一文のことですね。


これはその人のためにも言っています。


いえね、世の中には、自分が不快に思ってるのに人のブログをわざわざ見てる人がいるみたいなんですよ。



以前私に


「誰それさんの以前のブログが非常に不快でしたが、最近も不愉快にさせる内容でした」


と教えてくれた人がいたんですね。


私でしたらその最初に不快に思った時点で、もうその人のブログは読まなくなってるでしょうね。


でも私の場合は、


その不快だと言われてる記事が出た当時、ブログ主に対して匿名の人から来た抗議文に対して、ブログ主を擁護するコメントすらしていましたから、

私にとっては不快なことはまったく記されてなかったのですね。



察するに、その「不快だ!」と抗議してる人達は、


何やら、御自身の心の奥底に潜むやましさを、他人の言動から刺激されて、それを単に自分で呼び醒ましてるようで…



「何でそんなことお前が判るんだよ!」



って、思われますよね。


何分これは原理的なことなので、大なり小なり、どんな人にも当てはまる事なんです。



人という存在の根底にあるものですから。



私の意見ではなくて、あくまでこの世界の中で働いている原理の説明です。


自分の中で生じてることなので、当然、


幾ら


「アイツの言うことはこの上なく不快だ!」


と言って、


それでよしんば論破出来たとしても


本当の解決には至らないのですよ。


悲しいですね。(笑)




幸いにしてその解決策もちゃんとあります。


もし無いのであればこんな話もしていません。


まぁ、ブログの範疇を些か超えてきますので、ここではほんのちょっとしか述べられませんけど。


真実ってのは、知るだけでもだいぶん人の状態を良くするものです。


私にも最近それがありました。



これは以前にも話しましたが、



人は、自分が心から欲していないものを敢えて求めると、その人のそれを知覚する能力は減退して行きます。



具体的に言うと、



見たくもないもの 

ー 目の前で見ているものであれ、撮影された何かの映像であれ ー 

を見続けると、その人の物を見る能力

即ち視力の減退が生じ得ます。


聞きたくないものを聞き続けると、聴力の減退が生じるかもしれません。



それは何故って、


あなたがそれらを「本当は見聞きしたくないから」と思っているからです。



当然でしょ?



自分の望むこと。願ったり叶ったりです。



あなたの思う通りになってるだけなんです。



物質宇宙上で人に働く原理って、これくらい簡単でそのまんまのことなんです。




「嫌いだっ」て言いながら、その嫌いな何かに近づいちゃ駄目なんです。



それでもそこに近づかずにはおれない何かがあるとしたら...



ほら!(勘の鋭い人は気づいたでしょう!)


その人は本当にはある人や何かを嫌っているんではなくて、(それはあくまでも表面的な心的態度であって)


自分の中にある何かが刺激されて、その何かには直面出来ないが、他人がした悪い事(とその人が思っている)には直面出来るから、自分の見たくない内面に直面する代わりに、他人の悪いと思える部分にだけ直面して、


ただその人を悪く言いなして、自分自身の内面に直面出来ないが故に生じた他者批判、自分は正しく、他人が悪いことへの正当化をおっ始めるのです!!



それが分からないというのなら、その人のブログも、私のブログも二度と見ないで頂きたいものです。



あなたのためにも。そして他の人達のためにも。



別にこれは原理的なことであって、

すべての人々が正当化をしなくなるなんてことはないし、

普段はしないようにどんなに気を付けていたとしても、不意に、若しくは不注意で起こした過失に対しては、人は誰しも正当化しがちなものなのでしょう。


完璧性とは、それ自体が既に到達不可能か、若しくは達成が極めて困難であるという概念です。


そんな厳しいことは誰にも求められませんよ。



でも面白いことに、自分を正当化して、他者を非難してる人に限って、他者に完璧性を求めるんです。



どういう完璧性かって




「お前が全部悪くて、俺が全部正しいんだ!!」



これですね。



世の中にこんな完璧性は現象としてほぼ存在し得ないでしょう。
(誰かの主観とそれに同調した無責任な集団心理の中にのみ、暴走した、或いは独善的な絶対性を観察出来るかもしれません)



本質的にあなたが私に言っていたこととは、こういうことなんです。



但し今回のこの文章全体が、私自身に向けて出してるみたいなところもあります。






あなたは私のことを「粘着質だ!」とか言って、その他にも考えうる限りの御自身がしていることを私がしていると言って浴びせかけました。


なんであなたが粘着質かって分かるかと言うと


嫌だと言いながらその嫌な奴の記事をまた見ていたことを私に話してくれたからです。


当然、私の記事もその後も続けて見ている筈ですが、そこまでは私の了見の範囲外のことなのでお好きにして下さい。



あなたと私とのたったひとつの大きな違いは、



私は自分が粘着質であることも、その他諸々のあなたが言っていた私に対する悪い評価も否定も、それはそれとして認めているということです。



どうでしょう?



世の中で起こっている他者への言い争いの大半は、その人自身の内面から生じていることが最も大きく作用していると見方を変えるだけでも


気持ちが幾らか楽になりませんか?





これも既存のテレキャスターの見方を少し変えて見てます。


昨日ね、コントロール類の配置を再検討してました。




今日は長くなったからこのギターのことはまた続きをやっていきますね。












私のギターに対する基本理念は




ストラトはガンダムである!であります。

















今回私は、


テレキャスターでもきっとガンダムにしてみせます!


















現状では自己の内面の世界の話ですが、他の人の世界観にも影響を与える成果として実現させたいですね!