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紀伊半島ですね。

2,3日前に人と話してたら知りました。

何やら紀伊半島は、

荒振る原初の成り立ちの凄まじさをその地形に今もありありと残していると聞きまして、

話ししながらその場で調べました。



その人はなかなかの物知りでして、


私が


「殷の前の夏(カ)、夏かそれより前くらいの支那王朝は、縄文人が支那大陸まで出張って来てて、記録にない最初期の王朝を建てていた痕跡があるらしい」


と言ってもちゃんと知ってるんですよね。


いやぁ。私も知ってましたけど、一体その知識どこから得てるの?と不思議に思いました。(ブハッ笑)


地理学を私は知りませんからかなり勉強になりました。
(地政学はもっと大事ですね)


私はこれでも情報収集にけっこうお金をかけてますからね。


ああいうのなんて言うんでしょう?


情報提供サービス?


七つか八つくらい定期購読してます。(定期購読分だけで毎月1万円超えてます!)


それでつくづく思うのは、

通常社会生活においては、ネットとかユーチューブで得られるもので必要にして十分だと言う事です。



お金で情報を買う場合とは、

私企業の巨大プラットフォームに情報を出しても即削除されてしまうくらい、既得権益層や世界的権力に敵視されて情報統制される物凄い情報だからということで、


既存メディアや既存プラットフォームから独立して存在/運営するところの情報をわざわざ買うわけですが、


通常はそこまでしなくてもネットで十分必要な知識は得られると思ってます。


それ以上は一般的な社会人にここまで必要か?と思わせるような内容も少なくなく、

趣味とか知識欲、そして専門的に学ぶ人向けという意味が極めて高いのではないかと思われます。

それでなければそれなりの人しかここまで知ろうともその必要性もないかもしれません。



それでもそういったハイレベルな知識や情報を得る前に、

通常のネット情報などでまずは基礎を固めて行こうとすると、それだけでも為になる膨大な知識/情報を手に入れることが十分可能なんではないかと思うのです。



そうすると「それだけで十分物を知ることが出来る。もうこれだけで大丈夫」と私はなりがちになりました。


それでも書籍や単発で得られる情報商材、定期購読物/刊行物など諸々を合わせると、月に優に5万は超えてますから、、、



でもその割には物を知らな過ぎだなぁっていつも思ってて、自分の空白過ぎる頭の空っぽさ加減を埋めるので大変です。



あ!情報商材の中で素晴らしいのは、本では限界があることや、ネットでも出てないような特定分野の知識を基礎的なところからかなり深い所まで解説しているので、その分野のことを系統立てて学べて大変為になります。



例えば世界を牛耳る世界金融資本と言われる存在についても、陰謀論としてではなく一次資料に基づいた信憑性の高いデータを手に入れることが出来ます。




陰謀論にある問題点とは、

それがあまりにも遠大で日常生活から乖離している、現実性は薄いのに実に壮大な物語になってしまいがちであろうということ。


つまりは他人事の絵空事。

今すぐ何かしなければという危機感とか、自分達に関係のある大事なことという現実感に乏しくなってしまうであろう。


そのように考えてます。









大事なことはきっと…



自分の考えが正しいかどうかなんてことよりも


自分の考えや意見を持ち、人ととことん話し合うことが日本の明治になる前までの文化だったそうです。


自分のしっかりとした考えや意見を持つには、まずは物をある程度以上知ってからでないとお話になりません。



それも出来るだけ広く深く。





例えば人の誰かに対するミスエモーション。

(その場にそぐわない不合理さを伴う感情的に制御出来ない衝動)



これが起こっている時にこの知識を持っている人は、すぐにそれが何なのかを瞬時に判断できます。





昨日はマウントがどうのこうのという話をしましたが、実はこの時話しした人ともそんな話が出て来てました。


その人はギター工房の人なのですが、


「あそこのギター工房は作業手順や独自手法をブログで見せて『うちはこうなんだ!!』と言ってマウントを取りに行っているのが分かる」

「だけどそれに対して文句を言うつもりは無く、それがそこのやり方だからそれはそれで良い。ただ自分だけが一番正しいかのように言うのはマウントを取りに行ってる行為だ」

 
と軽く批難混じりの分析をしていました。





それでですね。




私はそこの工房がマウントを取りに行ってるなんて露程も思わないんですね。



寧ろ尊敬してます。

(最近『いいね』するようになりました)




人それぞれに視点が違うのは当然ですが、

ここにはそれとは違う、ひとつのある真実が見え隠れしています。





以下は原理原則を解説した文章です。


この宇宙に存在しているが、説明文自体は一般論としてお読み下さい。



この話はブログ開始当初も、そしてここ一ヶ月くらいにもしていることの延長線上にあるのですが、



その批判混じりの声明(あそこの工房はマウント云々)を出している人は、批判している人に対して自分が直面していないものがあることを証明しているのです。


例えば、自分ところはそんなにブログで作業工程や技術内容をアップして、パブリックに対してサービス精神を振り撒けてないとかのね。



自分が直面していないって事は、つまりは起因に立っていないという事です。


起因に立っていないって事は、つまりはそれだけ受身の要素が増えてるという事です。


受身の要素が増えてるという事は、それだけ自分がその対象に対して起因に立てなくなってしまった原因を、自らが創造してしまっているということです。


何処でその原因を創造してしまったのでしょうか?


必ずその対象に対して受身になる前に自分でそうしてます。


その対象が自分に対して何かしたから受身になっているのではありません。


これは受身になること自体が悪いという話ではありません。


受身になった後に、その物事の起因でいる状態を弱めて、その後であまつさえ誰かからの犠牲者になってしまうのは、ひとえに自分自身がそうなると決断した瞬間があるのです。


何故そう決めたのでしょうか?


自分が犠牲者になって、不平不満を撒き散らして、被害者意識を持ち続ければ、

他人を悪く言い続ける絶好の正当化を得ることになり、自分が本来立っている物事を起こしている点(起点)であるという立ち位置を放棄したままでいられるからです。


自分が如何に犠牲者で不当な扱いを受けて来た可哀想な立場であるかと喚き散らすことに、他者批難と自身の不作為や責任放棄への正当化が集約されることでしょう。



要点はこうです。



自分自身に不作為ややましさ、相手から見透かされて刺激されてしまった人に知られたくない隠していたいもの。本来は自らが為すべきだった筈の責任の放棄。或いはその一部。



そんなものがあると人は起因でいる能力を失い、誰かに対して受身になり、受身になるとその人からの影響力を諸に受けるようになるので、被害者意識が加速して猛烈な正当化をし始めるのです。



「あそこの工房はマウント云々...」


これはとても軽い部類のメイクロング(他人を悪く言いなす行為)の徴候ですが、


 
これが酷くなると...



私に対して無慈悲に不合理で批判的、攻撃的な人がいたとして…



これをもし読んだとしたら猛烈な抗議の長文を送りつけて来るかもしれません。











「その話はもう終わっただろがっ!!!!」









はい!それがまさに正当化のメカニズムです。





正当化とは、、、もう一度言いますね?


自分が犠牲者を演じ、他人を悪者にして、自分が正しくいるために相手のことをひたすら批難しまくることのことです。




この話は折ある毎にこれまでも言い続けて来ました。




そんなことを起こさないようにという自身自身と皆さんへのメッセージでした。






そう。



韓国や中国を見て下さい。



彼の国達は漏れなく自分達がしていることで他国をひたすら猛烈に非難し続けています。



自分にやましい気持ちがある者ほど他者を猛烈に非難しまくります。



これは厳然たる原理原則であり、どんな人にも当て嵌まるのです。



真の悪人を除いては。(悪いことをしているという意識感覚が極限まで下がると、事に対する責任能力が失われるので、他者から罪を見透かされることも最早無くなる)



傷付くというのは、誰かに何かをされて傷付くのではなく、責任能力を引き下げたその人が影響側に身を置いて、自分で「傷付く」と決断するから傷付くのです。


それを自分から隠すために如何に自分が正しかったかを人に吹聴したり、被害者になって人を責め立てて糾弾するのです。

(最近もツイッターで吹聴してる人がいました)



もしこのメカニズムが嘘だと言うのなら、あなたは自分で自分の問題を解決する能力を全否定することになるのですけど、それでもいいのですか?








まぁ、そのようなことを学べています。



いえ、今述べたような内容は情報ビジネスからは無理かもしれません。(笑)





「アイツはマウント取ってくるまったくもって嫌な奴だ!」




もしそう思いたくなったら、あなたは他人を悪く言いなすようなどのような自分の罪を他人に見透かされましたか?




私は事ある毎に、いつもそのように自問しています。




人生全般ではそれも難しいかもしれません。





しかし少なくとも、


自身の設計したオーダーメイドギターに関してはその一切の責任を取り続けますかね。




いつもそのようにしてギター関連のことを良くし続けています。




だからこのように数行だけであったとしても、その日のブログにギターのことは外さずに必ず入れ込むのです。




それが当方が当ブログにおいて、起因であるためにしていることの小さなひとつです。。







そして今日は大事なボディ設計図です。



アディロンダックスプルースは不採用になりました。




こんなもの挟まなくても他の素材の厚み調整のほうが、余程大きな影響が出て来るだろうと判断したからです。


そして労多くして益少しの典型的な事例になりそうでしたから。


また多プライボディギターを数多く創っていらっしゃる、
Nobu様に対抗意識を燃やしてるようで、少し大人げない気もしますかね?(笑)



あとアディロンダックスプルースなんて、なんてハーミーな!?(プルプル笑)とキャプ辺りに笑われそうで非常に恥ずかしい限りです。


「ひ、日頃のハカランダに対する文句は何だったの??(プルプル笑笑)」



もう自分の浅はかさ加減に恥ずかしくてモーレツ死にそうです。



笑ってやって下さい。