術(すべ):目的に対しての具体的な行動。




好きなカレーの食べ方教えて!

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今まさにカレーを食す処なのですが、




昔はソースをぶっかけて匙でこねくり回して、具材とご飯をまぜこぜ/ぐちゃまかにして食べてました。


姉から「他所でやったらおかしいと思われるよ?」と言われてからはやめました。

今は全然混ぜませんし、小麦粉の入っている*エゲレス由来の所謂カレーライスではなくて、インド系のスパイスカレーをよく食しています。

*エゲレス:イギリスのポルトガル訛り。ちなみにオランダの呼称もポルトガル訛りです。(オランダは現地ではネーデルラントと言います。ドヤッ)

それは寧ろ混ぜて食べたりするものらしいですが全然混ぜません。

右側のご飯皿も全然カレー汚れさせません。


お店の人の話では日本人はそうみたいです。


お皿をなるべく汚さないようにっていう美意識が働くのですかね?





美意識にも少し掛かってくると思うのですが、



公共の場、人前で、そこには居ない誰かの悪口を言うことは、ほとんどの日本人にとって直感的に憚れる行為かと思います。


仲間内の話と公共でする話とを無意識的にせよ、意識的にせよ普段から割と我々は自然と区別してますよね?



【悪い例】

私がその昔通っていた音楽スクールの講師の方々もその辺はちゃんと区別していました。


講師の控え室の隣りの部屋が贔屓にしていた講師の部屋であり、よくそこでレッスンを受けることが多かったのですが、

他の講師達の生徒さん達に対する悪口/罵詈雑言が、その控え室からよく漏れ聞こえてきたものです。
(私の先生は顔をしかめて凄く嫌がって呆れていました)




それでこういう話をするのって 

ーたとえそれを話す事自体が目的ではないにしてもー 

物凄く意味のないというか寧ろしないほうが良いことなんです。



2:6:2の法則に照らし合わせてみてもそうですが、




些か全体主義的なんですね。




全体主義についてはいずれ詳しく述べたいと思います。





簡単に一口で言えば横柄なんです。



私だって自分自身のことを差し置いて棚上げして、他人のあら探しをしてるほど暇でも余裕がある訳でも立派な人間でもありません。



そうする人には、自分には何一つ間違ったところがないと言う事が前提。。。とまでは言いませんが、




その場にいないし反論も出来ないかもしれない相手を、公の場で悪く言うのは大変よろしくないと思います。


そんなことは自分自身の出来得る最大限のことを全て成してから言うべきです。←言うまでもなく超絶大変でほぼ不可能だと思いますよ!

(その過程で人の悪口を言わざる得ない不可避となる状況が例外として発生することもあるかもしれませんが、悪口を口にするにしても公平なやり方で言うべきだと思います)


つまり殆ど人には他人のことをフェアではないやり方を使ってまでして、あーだこーだ言う資格はないように思えます。


*勿論例外は山ほどあります。ここではより良い社会を築くための私なりの一般論を展開しております。 





SNS上でも 


そこで是非を問うたり、問題提起をする云々と言っている人がいましたが…


その場にいない特定され得ない匿名の人物をネットで槍玉に上げたからって、それを晒した人には何も罪がないとも言い切れるのでしょうか?




きっとありますよ。



読んだ人が気分悪くなる。



これが一番です。




だから今回の記事は私自身もある程度罪を背負って綴らざるを得なくなりました。



本当に申し訳ない気持ちです。




【解説します】


その場にいない人のことを公の場で悪く言うことは、


被告人不在のまま裁判が行われることに似ていますかね。


読者が傍聴人。

そこで賛成意見が述べられれば、検察側の訴追事項に取って代わるように見える。

そこで反対意見が述べられれば、弁護側の供述調書に取って代わるように見える。


原告側は傍聴人の中から公正な裁判員が出て来て、自分が有利になることを言ってくれることを期待しているのでしょうか?

それとも単に事の是非を問いたいのでしょうか?(もしそうならばもう少しやり方を変えたほうが良いと思います)


被告人が預かり知らぬ処で何やら良からぬ事が進行している。。。



(先月に出された韓国裁判所の日本政府に対する被告側不在の一方的な裁判決議のよう。他国に対する自国の裁判制度での行使は国際法違反です。国際法遵守は国際的に野蛮ではない文明国としての証ですよ。)



被告人を自分に置き換えてみたとしたら、その人が不公平なことをされていると義憤に感じませんか?

その人にとって知らないところで起きてることでも、他人である自分がそれを知った時点で少し嫌な気分じゃないですか?



そして私自身がそういうことをしないようにすることに、完全無欠に天地神明にかけて清廉潔白かと100%言えないかもしれないのに、



こんな話自体をする資格もないじゃないですか!?



だから凄く嫌だったんです。



*敢えてこの話をしたのは、そういうことをしている人をみて迂闊にもたしなめてしまったからです。





【良い例】


ある二人の女性達がある男性の割と近くでその人のウワサ話をしていました。

二人の女性が談笑しながら彼を凄く褒めているようです。


こんなふうに聞こえてきます。。


「普通の人には出ないような話を次々と出して来て、それに『ハッ!』とさせられることが多くて、話しだすとホント凄いよね!」

「アレ?さっきからずっと隣で本読んでるけど、きっと本人聞こえてるよね?笑」


とか言いながら。





これなら2:6:2の分布の良い方の2割へと向かって行ける性質を帯びた、いい感じの人への処し方ですね。





物事は今よりも


より悪くなって行くかより良くなって行くか、


より増えて行くかより減って行くか、


より好かれるかより嫌われるかの


どちらかしか存在しないそうです。


(このことから類推するに、つまり真の男女の愛とは歳を経る毎に深まっていくもののようです。[話適当])


一見変わっていない、現状維持しているかのように見えるのは錯覚だそうです。



平行線を辿り始めた時点でそれはより悪くなっていることの証だそうです。



だって基本は増えるか減るか、良くなるか悪くなるかしかしないのだから、


平行線とはあくまで一過性のそのように見える見せ掛けでしかないそうです。




有名な言葉では


“諸行無常の響きあり”


ですかね。






ところで


現在中国共産党はナチス・ドイツよりも残虐な行為をしていると言われてますが…


それについて日本人である我々が完全に無力で何一つ出来ないという訳でもないと思います。



とにかく物事は常に移り変わって行き、現状維持はこの物質世界にはどこにも存在しない事象なのだから



それについて力及ばずとも「とにかくなんかしよう」という気持ちが先ず大事だと思います。




一個人の私心による小さなわだかまりを関係の無い人にまで巻き込んで、ネット上で公にしている場合では全然ないのですよ。


世界の情勢は。


*繰り返しますが例外は何事にも付き物なので表に出さなければならない悪い事象もあります。先の民族迫害問題は言うに及ばず個人間の闘争でも十分あり得るでしょう。

*どうしても自分の気に食わないことをブログに出したかったら個人的な感情は出来るだけ省いて、起こった状況だけをありのまま客観的に、私情を交えずに最低限度の私心(自分の視点)だけで述べるべきでしょうね。

*言論の自由自体は否定しておりません。やりたい人は仕方がないです。しかし文明がより明るくなって行かない方向へと、自分が率先して世の中に貢献していることをお忘れ無く。






【それでは物事が良くなって行く方向性の例をもう一つ挙げてみます】


この写真を撮ったのが一年前の今週でした。


詳細は伏せますが、


一年前の意匠より3倍増しで創意工夫を施した紋様にしてみました。


これは12フレットのデザインです。



これだけ出すのは恥ずかし過ぎるのでスライムを描いて隠蔽してみました。(そうです。ちょっとだけ恥ずかしいデザインなんです。ドヤッ)







と言う概念は、


自分では無い他のモノになる


と言うことを意味するそうです。



「こんな自分、自分じゃない!(汗)」



って。



つまり高等生物… 精神的に意識がある程度は高くないと出来ないことなんです。









何を言わんとしてるか分かりますよね?






















我ながら

嫌な奴だ...