この風景の中に何かが隠れています。

大したものではありませんが人によっては大事なものです。


「derくらいにしかわからへん」

これがその暗号化された唯一の手掛かりです。



*何のことかお知りになりたい方は、私の尊敬するギターダーさんのブログに行ってみて下さい。


それで私、ブログが面倒臭くなって来てましてここ最近は記事を出していなかったのですが、とうとう本格的に嫌になってしまいました。



どれだけ私が

「『いいね』が欲しいわけではない」

と言っても取り入ってくれない人がいたりとか。

例えばの話ですけどね。


志半ばで申し訳ないのですが、当ブログは今回で終了することとなりそうです。


私がかつて、M○○取得の講義を受けていた折のhonor code (学校やあるコミュニティの規律条項)にこういうのがありました。


けして賞賛や他者からの存在承認を求めてはならない


私が常々心に留めていた言葉です。



それをもっと実践する時が来ました。


次の本来の予定では、

『オーダーメイドギターを超えるギター 〜幻のプロトタイプ〜』

とか

『ブルース・イ〜リーモデル 最初のカスタム着手はまさかの直筆○○○だった』

だったり

『スクワイアにK&Tを載せて○○素材のネックに換装もするけどロゴはスクワイアのまま 〜羊の皮を被った赤ずきんちゃん仕様〜』

など

盛りだくさんだったのですが、


残念です。


幻のプロトタイプなんかはリペアマンに

「これをオーダーメイドで作れますか?」

と訊いたら

「この独自仕様は一発目では成功しないから、先ずはそのプロトタイプを製作する費用が別途に発生する」

と言わしめた、かな〜り特殊な仕様です。

較べてみると「サイバージョイントよりは若干マシかなぁ〜」くらいの勢いです。


ほらこれ。
ジョイントプレートの中身がちょっと気になるでしょう?

ネックを外してその付け根部分を見るともっとびっくりです。

このモデルは他にも既存のギターではほとんど見かけない仕様が盛りだくさんなのです。




期待しててもオチはありませんよ?


残念ながら。


私が目指したいギターカスタムメイドの理想的世界へは、目指すのがまだちょっと時期尚早だったのかもしれません。


ちなみに世界的なプロギタリストに私のオーダーメイドギターを見せたら度肝を抜かれていました。

他のバンドメンバーも驚きまくっていました。


以前設計図だけ限定記事にて出しましたが、誰からもノーレスポンスでした。

それは別にそれで良いのです。

世界中の誰にもその発想がない設計仕様だからこそ、設計図だけをお見せしても実物を思い浮かべられなかったのでしょう。多分。


時期尚早とはそういうことです。


いえ、違います。


誰もギターカスタムの理想世界なんて殆ど考えてないということです。(自分のギターさえ良けりゃ他人のことまで責任持ちません)


きっと人類の精神的な成熟度や文化的な水準がもっと上昇して、何世代か後に語られるべきお話だったのでしょう。


これはこのまま幻のままにしておきます。



そう、すべては夢、幻だったのです。。。



うん、きっと幻影だ。



きっとこの回も。。。




え?




その上から目線をまずやめろと?





勿論もうやめますけどね。





意図して表面に出している部分と、内実が合っていないところとかをです。





でもそうするともうブログもやめるしかなくなるのです。





自分自身に対して高潔でありたいと望んでしまうから。





それくらいでないと他人に自分の理想を語る資格なんてありません。




いつかそうなれるようになりたいし、そうならなければ私だけの真実で終わってしまうのかもしれません。



これは全く以て大したことでも何でもなく、実に、本当に、真(マコト)に、最低ラインのレベルでのお話であります。



Cの世界的に云うならば皆さんに言うべきことがまだまだたくさんあるのですが、それは何年先のことになるかわかりませんが今はまだ言うべき時ではないということです。





私からは以上です。





一年間有り難う御座いました。






・・・という上記の内容を数日前に綴り上げてましたが、遠出していた為に電波不良で上げ損なっていました。



それでちょうどその頃なんですけど、豊島区のサンシャイン近くである交通事故が起こっていました。


それから数日経った先程のことなのですけど、たまたまその辺を通りがかりました。


まだ2、30人ほどの人がまばらに事故現場付近に来ているようです。

普段からそんな人数の人が留まって突っ立っているような場所ではないのです。


交差点の片隅には花束が無数に手向けられています。

私の目の前で男性が花束を手向けて手を合わせています。

ある女性は何やら抗議を含んだ険しい目で微動だにせず、しかし心の動揺は分かるような悔しい表情で、花束から2、3メートル先のところでずっと立ち尽くしています。

私が用事を済ましてまた通りかかった時にもまったく同じ佇まいのままでした。


人間は生まれながらに憲法で以て平等を約束されてはいますが、実情は公正でも公平でもありません。

力のある人がより弱い人を傷付けても、そして殺してしまっても、逮捕もされなければ、さん付けで報道されるという非常に奇妙で不可解な光景にも直面させられます。



それで

私はすっかり忘れてしまったことがあります。


幼少の頃から何か辛いことがあった時には、


「世の中には自分よりもっとずっと辛い境遇の人達が山ほどいるんだ」

「ここでへこたれていてはそんな人達に申し訳ない」


いつもそう自分に言い聞かせて来ました。




学生時代、

私が会った学校の先生にはかなりおかしな人もいました。


「『可哀相』という感情は自分よりも下に見ているからそう感じれるのだ」


などと断定してくるのです。


これは裏を返すとつまりは


「見下しているのだからその『可哀相』という感情は偽善にしか過ぎないのだ」


とでも教えたかったのでしょうか。(そういうトーンでした)


人の内から湧き上がる自然な感情にケチをつけているのです。


可哀相なものは可哀相なのです。


ただそのような言葉を「赤の他人が軽く口にして欲しくない」というようなことは、ちょっと考えれば誰にでも気づけると思うのです。


そのことと同じように、ただ通りがかっただけの私が「ご冥福をお祈りします」と言ってもマナーとしては良いのでしょうが、ご遺族や知人方、そして誰より亡くなった方々に対して薄っぺらく思えてしまいます。


しかし少なくともその無念さが計り知れないものということだけは分かっているつもりです。




私も実際に何度か死にそうになったことがあります。


今はまだ生きています。


しかし感情には生きながらにして、肉体の死の状態よりも低い感情にもなれるし、肉体の生の状態よりも高い感情にもなれるのです。


ここは理屈でいくら説明しても一度の幽体離脱の体験には到底及ばない超常的な感覚です。


私の個人的な経験で言えば


「自分には何でも出来る!!!!!!!!」


でありました。


完全に自由です。


生まれて初めて知る本当に本当の自分自身でした。


それで個人的には誰にでもはお勧めしません。


身体から離れるということは、肉体の死よりも低い感情も同時に味わう可能性をも含んでいるからです。(ダメージを受けて死ぬのと同じような経験ですから)


この話はお話するにしてももっと楽しくするつもりでした。


私自身が楽しくなくなってしまっています。
(楽しくなくなってしまったら物事はそこで終わりです)



先に述べていたことをもっと深く考えてみるべき時なのでしょう。



それでブログは続くのか続かないのか?



それも今考えているところです。






あ、題名の通りで取り敢えずよろしいんではありませんか?(忘れてた)