こちらの個人製作家における一本物のハンドメイド(手工)ギターを試奏して参りました。


製作者がもうお歳で材も入手困難なので恐らくは最後のギターになるそうです。



音をとても気に入ってしまいました。

ちゃんとテレキャスターの範疇内でありながら、この個体としての特性を物凄く感じられるというところにです。





しかし一番気に入ったのはネックシェイプですね。

エンパイアギターのようにどのネックプロファイルにも属さないネックプロファイルだが、シェイプが絶妙過ぎてそこだけで欲しくなってしまうようなギターです。



実は私も考えていたシェイプのひとつです。



前も言いましたけど、

例えて言うなら ’58レスポールにVシェイプの要素を採り入れた感じです。


勿論それを一本のネックシェイプとして高次元でバランスさせているから素晴らしいのです。


こういうの他にないんですよね。


凄く良いのに。。。





音は乾いたパキッとした感じで一直線。
いや、パリッとパキッの中間なのかな?


まだ出来立てで変に枯れたような感じもなく、音の深みみたいなものもまったく感じられませんが、吊るしの新品のギターのどの音とも少し違います。

音が低いところから高いところへとなだらかでありながら、一直線に向かって弾(ハジ)けるような高音が心地良く立ってきます。


そんな気がします。


これはテレキャスターの見た目をしたレスポール構造寄りのギター

その音を想像して弾いたとしたら、その期待通りの良い線行っているハイブリッドギターだと思います。
(中音の膨らみや音の深みはありませんけど)



使用材の種類や程度については必ずしもギターマニア垂涎の...

とはやや言い難いものがあるのですが、

私はそこではまったくこのギターを見て評価しようとは思いません。

 


個人的な見解では、

フェンダースタイルのギターには、これに使われているアフリカンマホガニーが音の特性も合っている気がします。というか好みですね。


音の重心が高く軽快に鳴ります。


代替マホガニーの更に代替偽マホガニーだろうと、個人の音の好みにどう左右するかなどは関係のないことだと思っています。




アフリカンマホガニーなどと言うこの材に与えられた偽名も
 

結局は、

ギブソンなどの影響で消費者側が持っているだろう「マホガニーでないといけない」みたいなギター通念上の慣習を利用した業界側の売るための戦略なのですから。 


仕方のないことかもしれませんが、売り手買い手双方に問題があると思われます。


パリッとしたオリジナルPAFの音を活かすのは、パリッとしたアフリカンマホガニーだとここにおこがましくも宣言してやりたい気持ちにならなくもないです。

(偉そうなんはいつものことやし堪忍してなー、そや、この先はめっさディープな話やさかい読むんやったらあんじょう覚悟して読んでーなーバリ長文やでー)
←いったい何人ですか?(笑)2024年10月26日追記





ギター好きかマニア様以外、マホガニーについて話が見えないと思いますので、ここでちょっとした小話も交えて解説していきたいと思います。






・・と思ったけど、




マホガニーの話は長くなりそうなのでやめときます。













ローズウッドの話をします。




ハカランダと呼ばれるローズウッド材のお話です。







知人にアコギ弾きの方がいます。


ギターケースを積んでいくと天井を越えて上の階の天井も突き破りそうな勢いのギターオタクです。


メディア戦略とかの言いなりになりやすい方なので、



常日頃から



「ブラジリアンローズウッド、通称ハカランダは素晴らしい!」



と延々と言い続けてられる向きの人です。




「特にあの木の模様の荒れ具合、あれがハカランダたる所以であり、絶品物だ!」




見るに見かねた私は、




「あれは板目だから基本、模様が荒れて見えるんだよ、板目は柾目より狂いが出易く、アコギのように薄板で使う場合は尚更それが顕著になりかねないよ」

「マーチンではハカランダ材が枯渇しだした頃からD-35を導入して対処したり、それまで使わなかった板目の木取りを使うようにして、ハカランダ材の使用を無駄なく活用し、尚且つ制限するようになったんだよ」

「だからオールドマーチンは柾目のハカランダ材の使用がほとんどで、戦前物ともなればかなり高品質な老齢樹の柾目が多く使われている」

「板目にでる迫力ある模様のハカランダ材のマーチンは後世物がほとんどで、独特の杢目に対する評価が独り歩きしたものであり、楽器としての本来の品質で言ったら柾目材を使用するべきなんだ」




などと丁寧に教えてあげました。(先ずは板目と柾目の違いから説明してあげました)




すると次に会った時には



「ハカランダは柾目じゃないと駄目だぜー」



などとのたまっているから



「よっぽどハカランダが好きなんだな」



・・とは思いませんでした。




「こいつ馬鹿だな、うん、絶対ギター馬鹿なんだな」



・・とも思いませんでした。




こう思いました。



「自分で良し悪しを判断する能力が欠如しているから、世の中で『素晴らしく良き物であると評価される処の名品逸品』と言われるものにしか高く評価して認められないんだな」



とまぁ、なんとなくそんなことを思ってました。



自分で判断する能力がない


ということに自分で気づいていないのです。







これが以前から言及している



「自分が知らないということを知らない」



という心的態度の表れであります。



自分が「(判断能力がないことを)知らない」なんて思ってもみませんから、


当然、


自分の判断と評価としてその対象を見ていると思っています。
 


実際には世間での一般論的価値評価でしかないものを、さも自分個人の考えと価値観と評価論のように持ってしまったのです。



これはマインドコントロールのメカニズムと非常によく似ています。



ー と言うより、これが資本主義経済活動における基本的な企業の取り組みであり、大衆心理を利用した販売戦略の一環なのでしょう ー




自分の考えだと思っているものが、知らずに世間での評価に同意しただけで、自分の感覚を信じて判断して評価、同意したわけではないことに気づいてないのです。



本当はどこかで気づいているのだが、

自分が大衆心理に酔って夢を見ていたいからなのか、
自分の頭を働かせるだけの手間をかけるのが嫌なのか、
そもそもそこまで考えを至らせられないのかは知りませんが、


だいたいそんなところでしょう。












困りました。


マホガニーの話だったのにローズウッドの話にすり替わってしまったので、表題の解説まで辿り着けそうにありません。



やはり頑張ってマホガニーの話をしようと思います。


かなり気が重いです。読む人はもっと重くなりそうです。

ですからかなり端折ってお話します。

それでも読みづらい人にとってはけして読みやすい内容ではないので、ご自身で最高のオリジナルギターを作りたいと思われる人でない限り読むのはあまりお勧めしません。









ご存知のように1800年代には、現在「本物」と言われているマホガニーは資源として枯渇してしまいました。

原生林自体が産地から軒並み消失したので、自生林としての良質なマホガニーは新たに伐採しての入手は不可能となってしまいました。



主にスペイン人、そしてイギリス人の仕業です。
(イギリス人は関係ないと言う人もいるかもしれませんが、当時の世界情勢や国同士の関係性から私は関係あると思っております)


メソアメリカの地からいろんなものを根こそぎ奪って行ってしまったのです。


文明もいくつかそこで滅びたわけですが、白人の侵略のやり方に温情などと言うものは全くなく、そこの人間がほぼ殲滅するまで容赦なく攻撃の手を緩めません。



男は皆殺し、女は犯される。

昔からの戦争の慣わしです。



日本人兵士ぐらいだけが大東亜戦争において、当時の戦争における世界万国共通の戦利品的な戦地での非人道的行為を行わなかったのではないでしょうか?


当時の中国の民間人達は日本軍が町や村に来ると大変歓迎されたそうです。

中国人兵士は相手が日本人だろうが同じ中国人だろうが、戦地で掠奪出来るなら見境なしだったらしく、そんな中国民間人を日本人兵士は守ってくれたからです。

なんだか今の日本人の感覚とあまり変わらないのではないでしょうか?


K国人やC国人は今でもそんな「戦地での戦利品漁り」を当たり前のようにやるでしょうから、「憲法九条がどうたら」と宣っている人間の想像力のなさと、意識の至らなさと、野蛮民族に対する直面能力のなさは目を見張るほどのものがあります。








そのような戦争と侵略による支配者民族側の飽くなき欲求に


マホガニーの森林は呑み込まれて丸ごと消えてしまったのです。



そこにはスペイン人やイギリス人によってもたらされた文化も発展していきましたが、


同時に本物のマホガニーと呼ばれるキューバンマホガニーは、地上からほとんど姿を消してしまったわけです。


その代替材であるホンジュラスマホガニーもいよいよもって原生林の存続が危ぶまれています。

一説には産出国から国外への輸出の8割方は密漁者による伐採であるらしいからです。




その更に代替材であるアフリカンマホガニーは、そもそもマホガニー種ですらないのですが、見た目がマホガニーぽく見えるので業界で売るためにそう通例的に呼ぶようになってしまいました。


これは既存の有名ブランドや、昔からのギター材の王道であるというところが大きいのでしょうね。


個人的な感覚としましては、そういうブランドとか本物志向を別にすればアフリカンマホガニー、全然悪くないんですよ。


例えば近年よくある

ここ数十年の植林材ではない、マホガニー黄金期における原生林のキューバンマホガニーを、湖だか河川とかから沈木材として心血注いで引き揚げられたものを、ギターに関わる人間が入手することも大変結構なお話だと思うのです。



それはそれで夢のあることです。




ただ、歴史をほんの少しかいつまんで見てみても、マホガニーにはこのような背景と末路があるのです。



白人特有の底の知れない欲求が、アジア人や黒人ではけして考えつかなかった文明の偉大な発明や発展を加速、促進しはしましたが、同時にそれ以上の破壊をも地球上にもたらしてしまっているのは、皆さんもご存知の通りでしょう。



実際、日本が開国する前のアメリカの外交使節団だか誰だかは、当時の日本人の文化面や生活の豊かさに「我々の文明を持ち込むことが果たしてこの国を豊かにするかは疑わしい」とまで言わしめているのです。






私は思うのです。




日本人として



オリジナルギターを作る際に



それが自作でもオーダーメイドでも、または個人製作家やはたまたメーカーが作ることを問わずに思うことがあるのです。




それを自分が参画、設計、デザインしたオリジナルギターならば、


そこに自身のギターに対するアイデンティティーなりオリジナリティーを込めろよ!


と。



願わくば日本人としての魂、大和魂を吹き込めよ!!


と。



実際の作業をされる方や職人さんが心血を込めて作られているのはわかっているつもりです。



ここで言っているのは、そういった製作上の技術的なことや使用するマテリアルの話ではなく、


その上に来るべき



そのオリジナルギターをどのようなオリジナルギターにするか



の考えのことであります。



そのことを人によってはコンセプト(概念)と言ったり、


ストーリーとおっしゃる方もいます。


私はコンシダレーションと説明しております。


簡単に説明すると、人が「そう考えていること」です。






・・・簡単過ぎました。


もう少しだけ説明します。




「このギターはこうこうこうだから、こんなに凄いんだー!最高〜」



と言えるような


オリジナルギターのオリジネイターが、そのギターに抱いている考え方のことを言います。


オリジネイターはその考え方に沿って、そのギターをそこに合わせていくために、そのギターの主に構造的な要素の理想を追求したりします。

その中には当然ながら製作条件の技法的なことも入るでしょう。

楽器としての音響的なことや、意匠上の見栄えも入るでしょう。



そのようにして追求できたからこそ、


「このオリジナルギターは素晴らしいんだ」


と言える


そのオリジネイターの考えがコンシダレーションなのです。




例えばそれが


「追求が不十分だ」


となればそれがそのギターに対するコンシダレーションになり得ます。




そしてコンシダレーションは常にその物質的な要素の上に来ます。



言い換えるなら、

人の夢とは、その夢の具現化した物質的な現れよりも大事だと言うことです。

何故ならその「夢みたいな素晴らしい何か」が目の前に現れたとしても、自分自身がそれに対して夢を抱いてなければ当然人はスルーするからです。


少しは「面白い」と思って観なければ『ハンソロ』も本当にクソつまんなくなるでしょう。



もしくは有り難みを少しも感じないで「得られるのは当然の権利」と考えるのです。掠奪するのも「神の啓示」とかなんとかのたまって宗教を利用してまで侵略を正当化するのです。
(話が元に戻ってしまいました)


目の前にある物質的な益に対して、それの上に来るべき感謝とか、もっと高尚な何か、精神的なものが欠落しているか足りていないから全滅するまで殺戮し、絶滅するまで取り尽すのです。
(もうやめときますね)



自分の夢を叶える絶対条件にキューバンマホガニーが不可欠となれば、それがそのギターに必須な要素になり、そのままそのギターの存在を大きく意味付けるコンシダレーションのひとつになります。


「ホンジュラスマホガニーだろうとアフリカンマホガニーだと構わない」

となれば

それがそのコンシダレーションになります。
これは素材にあまりこだわりがないというコンシダレーションです。


そしてコンシダレーションはマテリアリズムよりも常に上に来るものなので、あなたがそこにどのようなコンシダレーションを置くかでそのギターの成否を左右しかねません。


つまり

「キューバンマホガニーは絶対不可欠な究極素材であり、それを使わねば究極至高至極のギターは作れない」


と言ってしまえば、


少なくともその人にとってそれは真実であり、支配的なコンシダレーションになってしまうことでしょう。



幸い、そう選択しないで置く選択肢のほうが遥かに多くあります。

わざわざ入手困難なもの、、、ほとんど入手不可能なものを心血注いで手に入れても、

コンセプトやらストーリーに重きを置かない限り、マテリアルの優位性を十分活かすことは出来ず、逆にそれが十分に練られてあるならば、マテリアルの優位性を上回れるというお話でした。







ちなみに一番最初の

アメブロ限定記事にて話題に取り上げていたギターはこちらのものになります。


これに関してはここでは何も言いません。

ご想像にお任せします。










ひとつだけ言っておきます。



私が許せないのは・・・





ー そんなスペイン発祥で生まれたギターが、イギリスから来たアメリカ人が発展させたギターとその文化として世界中に波及していった

それそのものは大変素晴らしいのです。

我々はそれで随分夢を見て楽しませてもらってます。

十二分に恩恵を受けているのです ー





・・・そこにそのまま乗っかってコピー紛いの物をハイエンドやオリジナルギターと呼称したりすること。

過去の悲惨な歴史を埋め合わせるだけの十分な夢と精神がそこに詰まってるように見えず、技術的、物質的な面では十分に練られて極められたギター。

それを誇りある日本人として黙って看過できないという事です。




歴史上、世界でただひとつだけ、欧米列強諸国の世界支配に敢然と立ち向かった国の末裔なのですから。



我々は。







本当はネックアングルについてのお話をもう少し詰める予定でしたが、長くなり過ぎましたのでこの辺で終わりにします。



気分の悪くなる方もいらっしゃるとは思いますが、私は自分の口にあまり蓋ができません。




本日も最後までお付き合い頂き誠に有難うございました。