まず、法の解釈について、たとえば「概念の相対性」を明確に認めている立場のものが、あれだけたくさんある条文上の「文言」に振り回され結論を得るという手法を採用する姿勢は不可解である。おのずと「文理解釈」にいたるべきが正しいわけだ。文理解釈は時に法文の中の「文言」を無視するに至る場合がある。
ところで、民事訴訟法では、審判の対象は「請求」=原告の権利の主張である、といわれる。なぜ誰もがそう言うのだろうかと、俺は不思議でならない。この問題は、実はこれまで俺は問題視もしなかったことだが、ちょっとした知り合いのkentarouという学生(当時)がしきりに問題としていたことからその触発を受けて考えてみるようになったのだが、いまはやはりkentarouの疑問は正しかったと俺は思う。
(1)審判の対象は「請求」すなわち原告の被告に対する権利の
主張だとする考えの基本は、あの裁判制度の存在根拠は
何であるのか、の議論と若干の法文の文言から導き出した
ものと思われる。
だが、国民の欲求としての紛争解決意欲と権利要求は、裁
判所が最終的に答えを出すものではあっても、即、審判の
対象そのものではない。審判の対象とは、裁判所が最終的
に原告-被告に向けた法評価としての解答を引き出す(検討)
材料としての対象なのだ。
(2)請求が審判の対象であるとする名だたる民事訴訟法研究者
も含めて、これらの人々の間では、「請求とは原告の被告に
対する権利の主張である」とする点でほぼ一致をみている。
そうだとすると、まだ裁判によって確定されていない権利の
主張なわけだから、それはとりもなさず原告の主観的な考え
に過ぎないことになる。
通説によると、審判の対象とは「請求」であり、原告の主観的
な権利要求である。その権利の主張や要求を審判の対象とし、
裁判所が上塗り的に正しい法的評価を下す、これが裁判であ
る、ということになって極めて不可思議な結論になってしまうの
だ。
なぜなら、ある紛争をもとにした原告の主観的な主張もしくは
評価(=「請求」)を対象にして何もない状態で裁判所がそれ
を上回る評価を加えるなんてことは不可能なだけでなく無意味
である。裁判所は、原告が基にしたであろう紛争的事実を同じ
く対象とし、法的評価をより正しく加えることならば可能である
し意味がある。要するに、評価や権利主張とはまったく別のそ
れらの評価の対象が原告にも裁判所にも与えられている場合
に初めて、裁判所が原告よりも優れた法評価をなしうることに
なるのだ。ここでいう「評価や権利主張とはまったく別のそれら
の評価の対象」たるものこそが、ここでいう審判の対象に他な
らず、現行法制度で言うところの「請求の原因」と呼ばれてい
るものなのだ。
次に、審判の対象を抜きにした法の解釈から、「要件事実」を抽出し、それに生の具体的な事実を個々的ばらばらに当てはめ、その事実は「主要事実」である、もしくは「間接事実」である、とするようなことは正しい法の解釈適用だとはいえない。審判の対象としての事実(請求の原因)は、社会生活レベルで意味を与えた場合には既にストーリーとしてまとまっているものであって、意味を成さないような個別ばらばらのものであってはならない。意味ある程度に一体としてまとまっている事実が請求の原因であるし、審判の対象である。このような審判の対象に部分部分的に法律要件を解釈することによって得られる「要件事実」を当てはめ、すべての「要件事実」を当てはめきることによってようやく法効果を引き出すことが出来るのだ。
ところが、現在の民事訴訟法の解釈運用では、前者の方法が行われているように見える。その理由は、「請求の原因」に「請求」を特定する働きしか与えず、審判の対象は「請求」に他ならないとするところからきているものと思われる。
