正義感とは何なのか。正義感とは一体どこから来るのだろうか。
仮に「正義感」を「独善性」と厳密には区分できぬものと定めるならば、恐らく俺は正義感が強い方であろう。俺はとにかく人のために喧嘩した。仕事においては同僚のために上司にたて突き、プライベートでも友人のためにしばしば代理戦争を引き受けてきた。そしてそれは自己満足にすらなり得ず、様々な場面で実に多く馬鹿を見て来たものだ。
さて今、正義感を「個の利益に反する価値基準から起こる行動動機」(定義1)と置く。人はなぜそのような行動をとるのだろうか。言うまでもなく全ての行動動機には善悪もしくは損得の基準が必要である。それが個の利害によらないならば、一体何を基準にその行いを良しと判断しているのだろうか。
ここで進化論の『利己的遺伝子仮説』を引用する。「ある遺伝子を持つ個体の行動の結果、その個体の損失よりも同一遺伝子を持つ個体全体の利益が大きい場合、当該個体は自ら損失を被ってでも他の個体を助ける行動を選択する」。それは群れで行動する動物によく見られ、例えば働きバチの献身や母ライオンの自己犠牲がそれに該当する。そして言わずもがな、人間も群れをなして生きてきた動物だ。
正義感を「個の利益に反し属集団の利益に則する価値基準から起こる行動動機」(定義2)と考えるならば、なるほど多くの場面で合点がいく。例えば同僚のための喧嘩は「職場」という属集団の利益のため、友人のための喧嘩は「仲間内」という属集団の利益のため、という訳だ。
しかし必ずしもそれで全てが説明できる訳ではない。これは今思い出しても唇を噛みたくなるような黒歴史なのだが、大学生の頃居酒屋にて、店内で騒いでいたチンピラを表に呼び出してドタバタの殴り合い、結果そのチンピラの何倍も店に迷惑をかけてしまったことがある。言うまでもなく目も当てられぬ愚行なのだが、酒の勢い若気の至りとは言え、俺は俺なりの正義感に突き動かされてそのような行動をとったはずだ。しかし俺はその場に一人、何の集団にも属していない。ならば俺の行動動機は一体どこから来たのだろうか。
否、やはり俺は無意識に属していたのだろう。その時の俺の属集団は地域コミュニティ、もしくは市民コミュニティ。そして俺は集団の秩序と調和を蹂躙する破壊者に敵意を抱いたものと推測できる。
以上述べて来た通り、正義感とは何らかの集団への帰属意識なくして成り立たない。元より「介入型の正義」などあり得ないのだ。そして現代の歴史観では、属集団を国家主義もしくは民族主義にまで拡張させた者を「狂人」、全人類にまで拡張させた者を「聖人」と呼ぶのだろう。さしずめ前者はアドルフ・ヒトラー、後者はイエス・キリストといったところか。