先日YouTubeで、「トキワ荘」のドキュメンタリーを観た。
トキワ荘とは東京都豊島区にかつて存在していた木造アパートである。そこには昭和20年代、かの”漫画の神様”手塚治虫が居住していた。やがて漫画誌の投稿欄で知り合った寺田ヒロオや森安なおや、藤子・F・不二雄や藤子不二雄A、石ノ森章太郎や赤塚不二夫といった漫画黎明期を担うことになる若手漫画家たちが手塚氏が転居した後に、彼の足跡に憧れ入居し共同生活を送るようになったのだ。トキワ荘跡地は今でも「漫画家の聖地」と呼ばれている。
トキワ荘の面々を、後に赤塚氏は「兄弟」と形容している。彼らの間柄は”切磋琢磨”というより”和気藹々”といったものだった。彼らは毎晩のようにキャベツ炒めとピーナッツという慎ましやかな食卓を囲み酒を交わし、漫画とは全く関係のない話でバカ騒ぎをしていた。そして培い得た活力を執筆意欲に変え、原稿にぶつけていたのだ。
しかしトキワ荘の初期メンバーのうち、晩年まで漫画家業に勤しんだのは藤子F氏、藤子A氏、石ノ森氏、赤塚氏だけである。寺田ヒロオや森安なおやなどは、後に漫画家を辞めている。それは彼らの才能が劣っていたからであろうか。いや決してそんなことはない。トキワ荘の先輩格であった寺田氏や森安氏は、人気や実力面においても後輩たちを圧倒していたくらいだ。
昭和30年代から40年代にかけては、漫画激動の時代であった。当初漫画は「子供に有害なだけのくだらない著作物」と見なされていた。当然商業価値など認めらようはずもない。漫画家は今では考えられないほど薄利多売の稼業であった。それが昭和40年代に入ると一変、週刊誌が刊行され漫画大量生産の時代になる。彼らは月に600ページというとてつもない執筆量を余儀なくされた。加えて「より刺激的なものを、より過激なものを」、読者の要求はどんどんとエスカレートしていく。そして多くの漫画家が潰されていった。
そのような苦悩と激闘の中から手塚治虫『鉄腕アトム』や今尚愛され続ける藤子・F・不二雄『ドラえもん』、その他漫画史に燦然と輝く数多の名作たちは生まれたのだ。
今日例えば鳥山明『ドラゴンボール』を手に取る時、尾田栄一郎『ONE PIECE』や青山剛昌『名探偵コナン』を読み開く時、皆さんも刹那思い起こしてみてほしい。そこに至るまでの長い歴史過程に、偉大な先駆者たちの血と汗と涙の滲む努力と貢献があったことを。