排斥とは数の暴力だ。排斥運動とは例外なくマジョリティがマイナリティに対し行うもの、つまり数の強者が数の弱者を虐げ締め出す行為である。そして俺は過去10年、少なくとも3度の排斥運動に遇してきた。そのいずれもがマイナリティ、数の弱者としてだ。
(1)喫煙者排斥運動
10年程前からだろうか、喫煙者はいつしか社会悪と見なされるようになった。始めは「分煙」なる聞こえの良いキャッチ、しかしその実施行されたのは「廃煙」だ。駅のホーム、街角、喫茶店、ファミレスなどから喫煙所が消え、俺たち喫煙者は犯罪者にも劣る冷視線を向けられることに。
(2)CD排斥運動
音楽のネット配信が主流になり、俺の周辺からCDショップ、CDレンタルショップが次々と潰れて消えた。今や音楽はダウンロードして聴くのが当たり前となったが、俺がそんな高等テクなど持ち合わせていようはずがない。かくして俺の生活から音楽が消えた。
(3)ガラケー排斥運動
携帯はガラケーからスマホが主流に。俺はいまだにガラケーを使っているが、ガラケー用のサービス提供は次々と終了、今じゃWikiも閲覧できない。極めつけはLINEだ。LINEをしてないが為に、俺の友人は激減。かつて数十人を数えた俺の学友の数は、今では半分、いや3分の1以下に。
以上、恐らくまだまだこれだけでは済まされない。百歩譲って(1)喫煙者排斥運動については仕方がないとする。失う益よりも得られる益の方が大きいのは認めよう。
しかし(2)CD排斥運動、(3)ガラケー排斥運動、これは一体何なんだ。消費者が望んだ訳でもない提供者主体の技術革新、我々はそれを押しつけられたのだ。需要側ではなく供給側がイニシアチブを握る市場経済など、A.スミスの「見えざる手」でブチ壊してしまえ。