新年、あけましておめでとうございます。今年もまた、まきしま及びまきしま日記をよろしくお願いします。
さて、ギャンブルで生計を立てる人がいたとして、それを批難する論拠が一体どこにあるというのか。
中学時代の授業参観、父兄が見守る中道徳の授業で、俺たちは各自寸劇をやらされた。2人1組で先生役と生徒役に分かれ、お題は「生徒が『自分は将来パチプロになる』と言った時、先生はどう説得してそれを止めるか」。
席順で俺はとあるクラスの女子、A子さんとペアを組んだのだが、このお題には中学生ながら大いに頭を悩ませられてしまった。「もしパチプロで生計を立てられるのなら、そのどこに問題があるのだろうか」。
そもそも人はなぜ働くのだろうか。社会に貢献し高尚な人物だと称えられる為であろうか。否、もっとシンプルに今日の寝床と明日の食糧を確保する為だ。ならば勤労に代替する手段があるなら、それを行使してはいけない理由が中学生まきしまには理解らない。
例えば詐欺、強盗、脅迫など他者の権利を蹂躪する行為なら、糧を得る為とは言え大いに咎められて然るべきであろう。しかしパチプロ稼業で他者の人権を侵害することはあり得ない。ならばそれをモラルハザードだと蔑むことこそ、道徳を逆手にとった言論の暴力ではないか。
結論、「パチプロになることを批難する」。そこに論理的根拠は一切ない。ただあるのは「何となく嫌だ」という非論理的な感情論である。
従って先生役のA子さんが理屈で生徒役の俺を論破するのは理論上不可能。ならば理屈ではない感情的要素を前面に押し出すのが、恐らく最善のシナリオであろう。
よって発表前の各自打ち合わせの時間、俺はA子さんに仕込んだ。「俺が『パチプロになる』と言ったら、何も言わずに思いっきり俺をビンタして。いい、思いっきりだぞ」。
そして俺らの組の発表本番。俺「先生、俺は将来パチプロになる」。バチン―――ッ、確かに俺は言った、「思いっきりだぞ」。そしたらA子さん、本当に思いっきりビンタしやがったのだ。
痛烈な一打をくらい、俺はよろめきながら思った。「A子さん、ガチ過ぎだろ。そして女の子の腕力をナメていた。これは想像以上に効く」。そして同時に思ってしまったのだ。「この女の子の本気の一撃、何か凄く快感…」。
長々と述べて来たが、要はこれが俺がドMに目覚めた経緯なのである。以上。