「時間」、それは近・現代物理学史において、
最も重要にして最も難解なテーゼの一つである。
17世紀末、I.ニュートンは唱えた。
「時間は常に普遍的なものであり、
この広大な宇宙全域において、時間は一様に流れている」
およそ200年後の20世紀初頭、A.アインシュタインは唱えた。
「観測者それぞれにとって時間の流れ方は異なり、
全ての観測者は、自身が体感する時間を正しいと主張出来る」
さて、日本人はとりわけ時間に几帳面だと言われる。
例えば誰かと時間の約束を交わした時、
恐らく誰もが一度は感じたことがあるはずだ。
「自分はこんなに待っているのに、相手はなんてルーズなんだ」
「相手は一体、何をそんなに急いでいるのか」
自身のスケジュールばかりを優先的に考えるならば、
まさに苛立ちは募る一方であろう。
しかし俺は思うのだ。
人と時間を契る時、我々はニュートンのようにあってはならない、
アインシュタインのようにあるべきだ。
先日、市の就職支援センターにて。
俺は心理士の先生による心理検査を受けた。
それによって、職業適性が分かると言うのである。
俺にしてみたら自分の再就職、そして将来がかかっているのだ。
一刻も早く結果が出るまで、いても立ってもいられない。
心理検査から数日後、俺はセンターに連絡した。
「検査結果は出たでしょうか?」
回答はこうだった。
「まだ結果が出ていないので、1週間後にまた電話してください」
そしてキッカシ1週間後。
俺はあらためて、センターに連絡した。
「検査結果は出たでしょうか?」
すると、センター職員はこう答えた。
「結果がまだなので、後日あらためて電話してください」
その時、俺は気付いたのだ。
この1週間、俺はまさに1000年のような思いで待っていた。
しかしセンター職員は、それを1秒とも感じていなかったのだろう。
ある時間tがあり、2人の観測者AとBがいたとする。
Aは主張する、「tの長さは1000年である」
Bは主張する、「tの長さは1秒である」
ここでAとBの間に生じた矛盾、
一体どちらが間違っているのだろうか?
ニュートン力学に照らすならば、
AとB、その少なくとも一方が間違っているとなろう。
しかし相対性理論に照らすならば、
AもBも間違っていない、双方がともに正しいとなるのである。
著しい拡大解釈が許されるならば、
ニュートン力学とは「独善」、相対性理論とは「寛容」である。
人と時間の約束を交わす時。
相手も自分も誰もが同じ時間サイクルの中に生き、
ゆえに相手も自分の期待通りのスケジュールで動いてくれる。
それは相手への配慮に欠くのではないか。
全ての人がそれぞれバラバラの時間サイクルの中に生き、
その中で各自精一杯のスケジュールで動いている。
ニュートンではなくアインシュタインのように心構えたなら、
待たされても急かされても、常に相手の事情を思いやれよう。