俗説「水戸の男はバカばっかり」 | 偏屈な親父による「デジタルカメラ」ぶらり日記

俗説「水戸の男はバカばっかり」

三月もとうとう最終週突入だけど、春めいてきません。最低気温が氷点下、最高気温が一桁で春とは言えません。そんな中、偕楽園の梅が七分咲きと健闘してました。

●偕楽園本園に咲く白梅です(この頃は三分咲き)
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■偕楽園本園に咲くこちらも白梅です(この頃は三分咲き)
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水戸の女はブスばっかり。水戸の男はバカばっかり。


と自嘲めいた言い方が水戸人の一部に残っています。今回は、これについて男の部を検証したいと思います。


● 水戸の男はバカばっかり ●


江戸幕府を開いた徳川家康の血を引く御三家水戸徳川家。幕末の内乱で有能な水戸徳川家の家臣たちは絶えました。明治政府の誕生に功績大な水戸徳川家でしたが、新政府に人材を全く提供できませんでした。


それで残った水戸の男はバカばっかり、と云う訳です。

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水戸徳川家七代藩主・治紀、長男で八代藩主・斉脩が死去。九代藩主をめぐって水戸藩内で対立が生まれた。


★保守派…徳川宗家より養子を迎える

◆改革派…七代治紀の三男である徳川斉昭を擁立


1829年(文政12年)徳川斉昭が水戸藩九代藩主となる。擁立に関わった藤田東湖らが登用され藩政改革を行う。この時代に今ある偕楽園・弘道館が造られる。


1844年(弘化元年)保守派が幕府と結んで斉昭を失脚させる。これを機に保守派と改革派の対立が激化した。


★保守派…上級武士、門閥派とも云われた

◆改革派…下級武士、尊王攘夷派、桜田門外の変を起こす

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1864年(元治元年)藤田東湖の四男である藤田小四郎は、筑波山に集結した62人の同志たちと筑波山で挙兵した。鎮圧するために高崎藩などで幕府追討軍が編成された。水戸城近郊に各派入り乱れて内乱状態になる。


★諸生党(保守派)…幕府軍の力により水戸城制圧


◆天狗党(改革派)…千人余りで京都を目指して進軍

※理由…のちの最後の将軍・一橋慶喜に尊王攘夷を進言


道中幕府側の藩と戦いながら越前国敦賀までたどり着く。天狗党一行は幕府に投降しほとんどが斬首される。明治政府が樹立され尊王攘夷派の長州により諸生党の面々は水戸城より追放される。水戸を脱出した諸生党は、北越戦争・会津戦争の戊辰の役に参戦したが新政府軍の勝利に終わり東北地方を流浪した。


そして有能な男は水戸からいなくなった。

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「義烈千秋 天狗党西へ」伊藤潤 新潮社刊

六割ほど読み終えました。400ページを超える大作です。

税抜き2200円の大作です。読後の感想は後日。

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