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J.F.ケネディーの弟ロバートケネディー(RFK)も暗殺によって命を奪われています。

ロバートは生前 身の危険を感じながらも果敢に演説を行い凶弾に倒れました。

「自分が死んだら緑の中にただ白い十字架だけを建ててくれ」と語っていたそうです。

その言葉に従い、アーリントン墓地に眠っています。

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~Wikipediaより

ロバート・フランシス「ボビー」ケネディ(Robert Francis "Bobby" Kennedy, RFK, 1925年11月20日 - 1968年6月6日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟で、兄の任命により同政権の司法長官(1961年-1964年)を務めた。

1963年にケネディ大統領が暗殺された後、ニューヨーク州の上院議員選に出馬して11月に勝利したが、1968年に、民主党の大統領候補指名選のキャンペーン中に暗殺された。兄のジョン・F・ケネディと共に『ジャック&ボビー(Jack and Bobby)』の愛称で親しまれた。

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組織犯罪の撲滅

司法長官として真っ先に取り組んだ仕事は、父親や兄ジョンと関係の深いマフィアをはじめとする組織犯罪の撲滅であった。マフィアをアメリカの内なる敵と見ていた。そのために司法省内に組織犯罪対策の特別班を結成し、徹底的な取締りを行った。まず1961年4月4日に、当時全米闇社会でナンバーワンの実力を誇っていたと見られるカルロス・マルセロを強制逮捕し、国外追放とした。また、マフィアとの癒着を疑われていたチームスター組合のジミー・ホッファを背任横領罪の罪で起訴した。このとき陪審員の意見が分かれてホッファは放免となったが、この裏にホッファによる猛烈な陪審員買収工作や脅迫があったことを突き止め、陪審員工作の罪で再び起訴し、ホッファを刑務所送りにすることに成功した。

この頃、父親のジョセフが主席法律顧問の職を降りる様に忠告するが、耳をかさず精力的に活動し、結果数多くの敵を作った。ジョセフが忠告した理由は、禁酒法時代に築いた自分とマフィアの酒の密売をめぐる親密な関係だった。ジョセフにとってそのことは弱みでもあったからだ。さらに、マフィアはケネディの選挙の恩人であり、CIAのカストロ暗殺計画の協力者でもあった。ロバート自身がカストロ暗殺計画を知っていたかどうかについては意見が分かれる。

また、ジョンの選挙の際に選挙不正を手伝ってくれたシカゴのドンであるサム・ジアンカーナと近いフランク・シナトラをケネディ政権から遠ざけた。ジアンカーナはシナトラやジュディス・キャンベル・エグズナーらを使って、選挙不正への関与をネタにケネディ政権と取引しようとしたが、ロバートは選挙不正が表ざたになることを恐れてジアンカーナへの締め付けを一層強め、1963年6月には完全張り込みの対象としていた。その後、司法省・商務省・国税庁を総動員して組織犯罪の本拠地ラスベガスを直撃する構想を1963年10月には完成させていたが、ケネディ大統領暗殺事件により中止となった。

ロバートが国外追放にしたマルセロは1962年、極秘裏にアメリカに戻り、司法省の強引な手法を違法であるとして裁判をこし、勝訴した。FBIの報告によれば、1962年9月にマルセロは自身の本拠地であるニューオーリンズに全米のマフィアを集めてケネディ政権の組織犯罪潰しを罵り、彼らの暗殺を示唆している。また、ロバートの手により刑務所送りとなったジミー・ホッファは1971年に大統領特赦により釈放された。

人種問題への対処
ロバート・ケネディは当時アメリカで大きな問題となりつつあった人種問題にも積極的に関与した。1950年代から1960年代にかけては公民権運動が最高潮に達していたが、それに対抗する勢力も拡大しつつあった。そのひとつにリンカーン・ロックウェルの率いるアメリカ・ナチ党があった。ロバートはロックウェルを陰謀罪で逮捕・起訴したが有罪判決には至らず失敗した。

1962年9月、黒人学生ジェームズ・メレディスがミシシッピ州立大学に人種を理由に入学拒否される、いわゆるメレディス事件が起きたとき、ロバートはミシシッピ州知事ロス・バーネットや大学当局者の説得に当たった。また、1963年にアラバマ州立大学への二人の黒人学生の入学をめぐる問題では、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスに対し、二人の入学を妨害しないよう電話で説得した。このときのやり取りはテレビでも放送されたが、あくまでも黒人学生の入学を阻止しようとするウォレスに対し、「それでもあなたはアメリカの市民か!」と怒鳴りつけた。

なお在任中の1962年2月に来日した。早稲田大学の大隈講堂で講演を行ったり、大阪府枚方市の日本住宅公団香里団地を視察したりしている。早稲田大学での講演の聴衆に若き日の小渕恵三がおり、小渕が翌年渡米した際に全く伝手がなかったにもかかわらず、この講演での感動を手紙に書いてロバートの秘書に手渡し、1週間後に面会できたという逸話がある[1]。

また、塩田剛三の演武を見学している。初老の塩田が見せる強さに疑念を抱いたロバートは塩田より遥かに体格で勝るボディガードを立ち合わせた。塩田が手を捉えた途端まったく動けなくなったボディガードを見て大変感心したという。