立春を迎えたというのに、寒い日が続きます。
まだ春は先みたいですね。
このところの寒さに心までやられて、凍えていました。
人と人との間にはいろいろな距離があるけど、
何らかの関りがあれば、求めたり、与えたり、互いに影響を及ぼし合う。
優しい言葉を届けるのはコミュニケーションのひとつ。
辛い気持ちの人がいたら、少しでも気持ちが安らいでほしい。
安心できる居場所で心を休めてから、また元気になってほしいと思う。
そして、叶うのならば、私もそこに加えてほしかった。
認め合い、許し合い、安心していられる関係。
私が求めていることは、過剰な要求だろうか。
求めて得られなければ、交流をあきらめるしかないのか。
だけど、たとえ交流を断っても、私という存在を脅かす人がいる。
私が適応障害になった理由は会社の人間関係。
私のことを気に入らない同僚が、私のことをセクハラやパワハラ、挙句の果てにストーカー行為をしているとか言い触らして、職場の仲間が大勢いる場所で何度も嫌われ者扱い、悪者扱いした。
まるで犯罪者のようにされた。
上司や会社に相談しても、相手側が被害者みたいに振舞っていたから、私にも非があるんだろうって決めつけられて、自分を擁護することも認められなかった。
ブログでも同じことが起きた。
悪人扱いされて、一方的に関係を切られた。
自分の気持ちに正直に生きたくても、世間では裁かれる。
それは間違っている、
本当の優しさじゃない、
自分が自分らしく生きてはいけない、
そして、何かひとつ気に入らないことがあれば、私の存在は否定される。
人にはいろいろな側面があると思っているから、私には人を決めつけることが難しい。
何の抗弁も許されずにに決めつけられ裁かれたときの苦しみも、痛いほど知っているつもりだ。
だから尚更、私には人を裁く自信がない。
たぶん、他人を裁くことができる人は相当の自信があるのだろう。
いや、もしかしたら反対かな。
自信があるように見せたいから人を裁く。
相手が悪いといって自分を正当化する。
相手を否定し相手を見下すことで自分が優越感に浸る。
相手を裁くことで自分の方が偉いと思う。
自分の中に価値を見つけることができなくて人を貶める。
人を裁く目的は、自分を承認するため。
人を犠牲にして成り立つ自己承認。
貶められた人は、その苦しみと悲しみを晴らすため、同じようなことをする。
ひとりのマウンティングから悪意が拡散しても、共感能力がなければ気にも留めないんだろうな。
悪意の連鎖が始まる。
そんなことをしなくても、他に自分を認めることができないのだろうか。
和やかな陽射しの中で、きれいな桜をのんびり眺めていたい。
春が待ち遠しい。