ぶら下がった赤い紐を辿ったら逆さ吊りになった人の体に繋がっていた。

紐ではない、これは腸だ。

逆さ吊りの男と目が合ったところで飛び起きた。


怖い夢を見た時は橘に電話する。

橘とは夢にだけ出て来る架空の人物だ。

いつ電話をしても必ず電話に出る。

怖い夢を見た時にしか電話をかけないので、

もしかしたら夕方あたりに眠っているのかもしれないが、

昼寝してうなされた時も、電話をしたら出た。

出ると「大丈夫だよ。虫はいないよ」

などと見当違いな慰めの言葉をくれる。

その的外れな感じが逆に安心感を募らせる。

橘は眠らない。


橘に電話しよう。

携帯電話の発信履歴から電話をかけた。


しかし今日に限って彼がなかなか電話に出ない。

3コール以上鳴らした事なんてなかったのに、10コール鳴らしてもまだ出ない。しまいには留守番電話に繋がってしまう。

「大丈夫だよ。虫はいないよ」

留守番電話案内のメッセージが橘の声で言う。

どういうことだろう。


もう一度目が覚めた。

なんだまだ目覚めていなかったのだ。

電話に出ないなんておかしいと思ったんだ。

今度こそ橘に電話しよう。


携帯電話に手を伸ばすとその先に男が立っている。

夜が明け始めていたので薄い明かりが顔を照らす。橘だ。

様々な疑問が去来するが、口を開いた私から出た言葉は

「今電話しようと思ってたんだよ」だった。


「鍵が開いてたよ。不用心じゃないか」

相変わらず的外れな返答をする。

そちらに私がいるのではないかというくらい、

窓際の鉢植えばかり見ている。


唐突に彼が、鳴った気配のまるでない携帯を手に取り

「ちょっと電話に出る」と言って台所のドアの影に消えた。

すぐ近くなので、聞きたくもないのに彼の話し声が聞こえてくる。

「全部君のせいなんだよ。こんなに僕を怒らせて」


怒っているのか、橘は。

怒っているところに始めて遭遇したが、

普段とあまり変わらないんだな、などと思う。

断続的な嗚咽のような呻き声が聞こえる。

電話の向こうはどうやら女性らしい。

いくら静かな部屋とはいえ、聞こえてくるほどということは、余程激しく泣いているのか。

どうしてこんなドラマをわざわざ私の部屋で繰り広げるのだろう。迷惑だ。何しに来たんだ。


「君が悪いんだからね。仕方がないんだよ」

続いて大きな鈍い音と短い悲鳴が間近で聞こえた。


電話の向こうではない。

相手もここにいる。

橘が低い囁き声で、聞き取れない程の早口で何かを話している。

何かとても恐ろしい事を口にしている気がする。

もう一度大きな鈍い音がして、

身の毛もよだつような呻き声が今度ははっきりと聞こえ、冷蔵庫を閉める音がした。


「大丈夫だよ。虫はいないよ」

恐らく私に向けて橘がそう言って、それからすっかり静かになった。


何分か経ったかもしれない。

こちらに戻って来るかと思ったがその様子がない。


ゆっくりドアの向こうに近付いた。

半開きのドアノブに手を掛け、恐る恐る引いた。


そこには冷蔵庫しかなかった。

橘はいない。

何の音もしなかったのに、いつの間に出て行ったのか。

もしくは最初から来ていなかったのか。

全て寝ぼけた私の見た幻だったのか。

そもそも私は彼に会った事があるのだろうか。

さっき橘と認識した筈の彼の顔をどうしても思い出せない。


冷蔵庫が気になった。

さっき冷蔵庫を閉める音がしたが、

彼はここに何か入れたのだろうか。

少し慎重に、冷蔵庫の扉を開けた。


冷蔵庫には、しまってある筈の卵や水や牛乳は何もなく、

大きな大きな人間の体内が広がっていた。

赤に近い桃色の洞穴のようなもの。

握った腸のぬるっとした感触が掌に蘇った。

逆さ吊りの男が冷蔵庫の上から私をじっと見て、

橘の声で言った。

「大丈夫だよ。虫はいないから」


そうだこれは夢なのだ。更に深く眠って、もっとあとで目覚めよう。

きっと痛みは感じない。

約束事のように体を屈め、広がる紅い洞穴に身を投じた。

もっと深くに潜ろう。今ここで私の体が溶けてなくなっても

いつか目覚めればいいだけの話。

目覚めなかったら目覚めなかったで、

目覚めるまで眠るだけの事。

何も怖い事はない。

というよりどちらでもいい。

目覚めるのも目覚めないのも同じ事だ。

今は分解して、分子に還り、

巡る電子の夢を見よう。