継光院~2人の藩祖を生んだ女性 | blog.正雅堂

継光院~2人の藩祖を生んだ女性

お盆を過ぎた好日、地元の方と赤穂に縁の深い歴史家先生の案内を受けて、津山は本光寺を訪ねた。山号は瑠璃山。


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ここは黄檗宗の禅寺で、津山藩2代藩主・森長継によって創建された寺院である。一見、要塞を思わせる門前であるが、同行の方に寄れば、これは黄檗宗の典型例なのだという。


ここに継光院殿という、一人の女性が葬られている。

継光院とは、播磨三日月藩の藩祖・森対馬守長俊の母の院号であり、俗名は於偕(かい)と言った。江戸時代はじめの大坂で生まれ、その後津山藩2代藩主森長継の側室となって、津山に住んでいた。


森家の系図を見ると、長継には多くの子供がいた。その数、男子だけでも9名。内3人が津山藩(と、その後継たる西江原領)を継ぐ立場となり、2名は津山藩領から分知されて新たな家を興した。その2名は、先述の森長俊と弟の関長治であり、両名とも於偕が生んだ息子達であった。


史書によると、継光院こと於偕さんは寛永4年1月4日、湯浅四郎兵衛の娘として大坂で生まれた。産湯を大阪の座間ノ宮(または坐間ノ宮)で受けたという。

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戦国時代には別の場所にあったという座間ノ宮は、秀吉の大阪城造営の折に御堂筋に近い現在地に遷宮され、座間神社として今も残っている。御神紋は鷺の丸、奇遇にも森家の定紋・鶴の丸を思わせる雰囲気がある。

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父の湯浅四郎兵衛は家柄の良い武家の出身で、出自を工藤氏といい、さらに遡ると藤原不比等の藤原南家の家系に繋がるという。工藤氏は鎌倉時代から南北朝にかけて伊勢の有力な国人であったが、16世紀半ばに四郎兵衛の先祖が工藤氏から分枝して細野氏を名乗り、その跡を継いで細野四郎兵衛と名乗ったが、その後浪人して湯浅に改めたとされている。


一方で、於偕は森長継の目に留まって藩主の側室となり、津山城内に住して長俊をはじめ5人の子を産んだ。また当時中国から渡来したばかりの黄檗宗に深く帰依し、瑞聖寺の住職や、その塔頭微笑院の和尚を呼んでは座禅や禅学に励んだという。瑞聖寺もその微笑院も江戸にあり、史料によればはるか遠くの津山まで両寺の住職を呼んだという。


ところが延宝2年(1676)2月、長継の嫡男・忠継が風邪をこじらせて津山で急逝し、臨終に立ち会った長継の落胆は大きく、忠継の死から2ヶ月ほどで次男長義(後の3代藩主・長武)に早々と藩主の座を譲って隠居してしまい、生活の拠点を江戸に置くようになった。


津山に残った於偕は、津山城を出て城の北に屋敷を築いて居を移し、家臣からは北屋敷さまと呼ばれるようになった。清水藤右衛門や井上宇右衛門といった家臣を傍に置き、太平記などを読み聞かせたという。


このまま津山で余生を送るはずだったであろう於偕であったが、元禄10年(1697)8月、4代藩主森長成の病死による跡取り騒動があり、これによって森家は97年統治した津山藩を改易されることになった。


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(津山城遠景)


津山に住み続けることができなくなった於偕は、息子の森長俊や関長治の助けを受けながら江戸に住まいを移すことになる。隠居していた夫・森長継が住んでいる大崎の津山藩江戸下屋敷に身を寄せ、ここが最期の棲家となった。

(この津山藩下屋敷は津山藩改易後は三日月藩の上屋敷となり、長俊が引き継いでいる。)


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(現在の大崎江戸藩邸跡)


於偕が大崎の江戸藩邸に移ってまもない元禄11年(1698)7月、森長継は89歳の天寿を全うしそれから13年後の宝永8年(1711)4月20日、愛息の長俊らに看取られながらこの世を去った。


 おそらくは本人の願いだろうか、遺骸は荼毘に付されて永年住んだ郷里・津山に送られ、この本光寺に葬られた。そこはやはり於偕の娘、於鍋の菩提を弔うために長継が建てた寺院であった。於鍋は長継の7女として生まれ、13歳で幕府旗本の松平康矩に嫁ぐも僅か9年にで亡くなり、江戸の天徳寺に葬られたが、不憫に思った父長継によって津山にこの寺が建てられ、於鍋の菩提を弔ったのである。本光寺とは、於鍋の院号(本光院殿)を冠している。

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しかしこの本光寺も既に越前松平家の所領であり、大きな墓石を置くことは憚られたのか、於鍋の巨大な五輪塔の横に、地蔵を刻んだ小さな墓石が建てられた。一見では、この2つの墓標が母子のものとは思わないだろう。

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左手前から、本光院殿(於鍋・五輪塔)、継光院殿(於偕・地蔵塔)、梅雲院殿(於つま・長継の側室・地蔵塔)と並んでいる。

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なお、於偕の墓石には「正徳元年辛卯四月二十日」と刻まれている。

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厳密に言うと、これは宝永八年辛卯四月二十日であり、正徳元年の改元は中御門天皇の即位に伴い4月25日となっている。現在のようにマスメディアが発達していないこの時代ならではの現象だ。

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墓所の前には御霊屋が築かれ、永明殿と名付けられた。おそらく於鍋のために建てられたものであろう。


 長継が設けた男子は数多いが、中でも於偕が生んだ2人の息子だけはいずれも英明の評が高く、共に大名に取り立てられているところなどは、於偕の育てが良かったということなのかもしれない。実は於偕にはもう一人、大吉という男の子がいたが、こちらは幼い歳で早世し、津山市内の寺に葬られている。

成人していたら、彼も一角の人物になったかもしれない。

また、於鍋のほかにも於千という娘をもうけた。こちらは周防徳山藩主・毛利元次に正室嫁いでいる。一般に側室の娘が大名家の正室として迎えられるのは中々難しいことでもある。森家が国主大名の家格であることのみならず、於偕の出自や、子女の教育が勘案されてのことだろう。


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(三日月・高蔵寺の森長俊公像)

津山を退去した後の長俊は1万5000石を受けて三日月藩の藩祖となり、次弟の長治は父・長継の実家である関家の名跡を継いで1万8000石の大名となり、備中新見藩の藩祖となった。


 また長治が領国新見に建立した西来寺は、於偕が深く帰依した黄檗宗の寺院(現在は真言宗に改宗)であり、以来新見藩主関家の菩提寺は新見の西来寺と、江戸の瑞聖寺と定めている。また黄檗宗の本山である宇治の万福寺に茶室を寄進したのもこの家である。

また、三日月・新見の両藩主家から本光寺に対して毎年茶湯料(ちゃとうりょう)10石が寄進され、明治維新まで欠かさず続けられてきたという。


国母という表現は、厳密には天皇の母と言う意味を示すもので、江戸時代の当時では恐れ多い称号ではある。西洋では文字通り国王の母を意味する。


だが、二つの藩(国)の藩祖を生んだこの女性こそ、まさに国母の名に相応しい方といえよう。