亀鶴姫~将軍家と森家を繋いだ細き縁 | blog.正雅堂

亀鶴姫~将軍家と森家を繋いだ細き縁

茶会を終えた翌日、所用で金沢入りする。

金沢は、8月に訪れて以来2度目。今回は時間を作り、先日叶わなかった訪問場所に足を向けることにした。




その場所は、金栄山妙成寺。能登半島中部・羽咋市にある巨刹である。

宗旨は日蓮宗。天正10年(1582)、能登を領有した前田利家の寄進を受け、江戸時代初期の慶長8年(1603)には利家の側室・千代保が帰依するなど、相次ぐ前田家の庇護を受け、本山として10万石の格式を持つ寺院となった。10棟もの建築物が重要文化財に指定され、国宝級の文化財が今尚伝えられている。


金沢駅から七尾線に揺られて1時間。

羽咋駅で降りて路線バスで30分。

そこから徒歩で20分行った場所にある。




その山奥に、森家ゆかりの人が眠る。


その方は亀鶴姫といい、出自は加賀100万石の領主・前田利常の長女。しかも外祖父は前将軍・徳川秀忠という、大変な女性であった。


亀鶴姫の母・於珠(おたま)はこの秀忠の長女。徳川家の盤石を固めるため、前田家との政略結婚の犠牲として僅か3歳で金沢に送られ、8人の子を産んだ挙句、24歳の若さで早世してしまった。




この於珠の母は織田信長の姪である於江与。幼くして前田家に嫁した於珠を不憫に思った於江与は、於珠の遺児である亀鶴を織田家の旧臣筋である森家に嫁す事を望んだのかもしれない。それも、一度将軍家の養女として引き取り、改めて森家に嫁がせることで、天下の将軍家を実家とすることが出来るように計らった。亡き於珠の供養が込められたことは言うまでもない。


生家の前田家に異存はなく、外祖父たる大御所・秀忠もこれに同意。

白羽の矢が立てられた森家にとっても栄誉ある縁組となった。

秀忠の養女となることで前田家と森家の縁組ではなく、徳川将軍家と森家の縁組ということを意味する。

(妙成寺・五重塔)

於珠が嫁いだ前田家は勿論、伊達家や池田家といった外様の大藩もこうした縁組が行われており、将軍家と縁組することで徳川家の本姓であった「松平」の家名を許されることとなる。江戸城内などでは、松平肥前守(前田利常)や松平陸奥守(伊達氏)などと称され、親藩や御家門に続く待遇を得ることが出来るのだ。

(妙成寺・本堂)


亀鶴姫の夫となる人物は、津山藩主森忠政の嫡子・森忠廣。兄・重政が病のため、森家の相続人として目されていた人物であった。


しかし、この忠廣。 「将軍家からのお嫁さん」という、身分の高い奥さんを持つことになり、公私共に多大なプレッシャーを掛けられることになる。

まず、将軍家の嫁を貰うにふさわしい立場」になるために婚礼直前に父と同等の官位に叙せられ、従五位下から父と同格の従四位下に昇った。

まるで森家に当主が2人いるかのような立場に祭り上げられてしまったのである。


さらには外聞を悪くさせないように娯楽も制限され、20代半ばの若き青年は公私共に監視に近い状況下に置かれた。

(妙成寺・阿弥陀堂)


寛永3年(1626)正月、森忠廣に大御所秀忠の養女・亀鶴姫を嫁がせる旨の公式発表がなされ、これを受けて亀鶴姫は生家の前田家を離れ、将軍家の養女として江戸城に迎えられた。


江戸城に迎えられた亀鶴姫は婚儀までの半年を秀忠夫妻や家光らと過ごすことになるが、9月15日於江与が病死。喪が明ける11月に延期となった。織田家と森家の血縁を結ばんと願ったと思われる於江与は、孫娘の婚儀を見届けることなく世を去ったのである。


そして於江与の四十九日が空けた11月、亀鶴姫の一行は幕府の重臣・土井利勝・酒井忠勝らの介添えを受けながら、江戸城を出立。僅か数百メートルしか離れていない津山藩森家の江戸上屋敷へ輿入れしたのである。


3年後の寛永6年(1629)4月26日、将軍家光は前田利常の屋敷を訪問。忠廣はここで家光に謁し、将軍家の鷹場を拝領(実際には使用の許可)を得、亀鶴姫にも土産(白銀200枚・巻物20巻)が贈られた。

 数日後には大御所・秀忠も利常邸を訪問し、忠廣と亀鶴姫は同等の土産を賜っている。鷹場は、当時の武家にとっては重要な社交場でもあり、現代で言うところのゴルフ場に近い。
将軍家専用の場所を拝領するというのは、親族に等しい扱いとも考えられた。「松平」の称号を許されるのも時間の問題であった。


ところが翌年、思わぬ出来事が起きた。


寛永7年(1630)8月4日、亀鶴姫は僅か18歳の若さで世を去ってしまったのである。金沢を後にして4年半。森家に来て3年10ヶ月目の出来事であった。


生家の前田家は勿論、大御所秀忠をはじめ将軍家光らの落胆は大きく、大切な嫁を失ってしまった森家では、面目を潰す事態となった。忠廣の父・森忠政は江戸城に呼び出されて家光に喚問され、前田家へは仔細を報告すべく使者を送っている。


慣例によって、子を宿さなかった亀鶴姫は前田家へ返され、前田家では生家である金沢へ遺骨を送った。その永眠の地が、この妙成寺なのである。


こうして、森家と将軍家の血縁関係は解消され、松平の称号も許されることなくなった。そして将軍家は勿論のこと、前田家からの血縁は将来に渡って再来することはなかったのである。


そして妻を失った忠廣は、伝書によれば放蕩にふけり、外聞を恐れた父・忠政によって屋敷内に監禁され、それからまもなくして不審の死を遂げたとされる。跡取りを失った忠政は外孫の関家継を養子と成し、家継は森長継と改めて、寛永11年(1634)7月、忠政の死によってその家督を継承したのである。



(亀鶴姫の墓)


時が過ぎて昭和42年、妙成寺に眠る亀鶴姫こと浩妙院殿と、祖母・壽福院殿の墓石を覆う鞘堂(さやどう)が築かれた。


(壽福院殿墓)


壽福院(千代保)は亀鶴姫が没した翌年に、後を追うようにして江戸で亡くなり、棺は熱心な日蓮宗信者であった故に池上本門寺で荼毘に付された上で金沢へ送られた。恐らく亀鶴姫も同様にして金沢へ葬送されたものと推察される。

前田利家の側室であった壽福院もまた、秀吉亡き後の前田家が徳川家に忠誠を誓う証として江戸に差し出された人質であった。


(手前が浩妙院殿(亀鶴)墓、奥が壽福院殿墓)


鞘堂の為に現在はオリジナルの墓石を拝むことは叶わないが、政略結婚や人質という悲劇を越えて、再び郷里に安住の地を得た彼女達は、今もここに眠っている。そして、寺に納められた彼女の遺品には実家・前田の梅紋や婚家・森の鶴丸でもない、将軍家養女たる徳川の三つ葉葵が踊り、武家社会の厳しさ悲しさを生き証人として今に伝える。


また、前田家の江戸に於ける菩提寺・池上本門寺には供養塔が建てられた。

層塔と呼ばれる形式のもので、11枚の屋根が重なるようにして建つ高い石塔であるが、現在は倒壊の危険から分解されてこのように仮置きされている。



さらに本門寺庭園(非公開)にはこの供養塔の付属と思われる石燈籠 も現存している。これは祖母の壽福院が亀鶴姫の菩提を弔うために建てたと刻まれており、壽福院が亀鶴を可愛がっていた様子も伺える。


 亀鶴姫は実母の於珠が若くして没したことから、壽福院が親代わりを勤めていた可能性が高い。また、妙成寺は慶長年間に壽福院が帰依した寺院であったことからも、亀鶴姫が妙成寺に葬られ、壽福院自らも墓所としたのは、壽福院自身の希望だったのかもしれない。


ちなみに、壽福院の層塔も池上本門寺に建てられている。

しかしこちらは生前である元和8年(1622)と銘があることから、自ら没後の供養として建てた逆修塔である。

浩妙院(亀鶴姫)の層塔が、この壽福院の層塔と同じ形式であることから、浩妙院の層塔自体も壽福院が建立した可能性も否めない。