森光厚忌~正雅堂貞風 | blog.正雅堂

森光厚忌~正雅堂貞風

今月に入ってから、森家に関する記述ばかりが続いているが、当月は先祖の命日が集中しており、これも止むを得ない。


しかるに本日は、森家4代当主・森清太夫光厚の命日である。
彼は正雅堂貞風(ていふう)と号し、その堂号が現在の私のペンネーム・正雅堂高節(こうせつ)となった。いわば私は2代目正雅堂である。


森光厚は今から187年前の今日、文政2年(1819)6月10日に江戸の下谷にある隠居邸で死去した。享年76歳。家譜には死後正五位を贈位されたとあるが、私はこれを疑問視している。


法名は光正院元雅日厚大居士。深川の浄心寺に葬られた。

下谷の廣徳寺に安置された位牌は

光正院殿元雅日厚大居士という。


50歳前後が江戸時代の平均年齢といわれた事を考えれば、76歳という年齢は天寿をまっとうしたといっても良いだろう。 


森光厚は、歴代当主の中でも最も名を挙げた人物として数えられる。

9歳からはじめた大坪流馬術は17歳で皆伝してしまい、久留里藩主黒田直英の師範を勤めてしまう。

最初は高田馬場で3年ほど馬術を教えていたが、若い師範ということで瞬く間に評判となり、神田に「森の馬場」という馬場教所を開設した。


当時神田は諸藩の江戸藩邸が集中する区域でもあり、生徒はといえば、そうした諸藩の上級家臣や藩主の子弟ばかりだった。この子弟の中に松平春之丞という少年がいた。 後の老中・松平信明である。


幼い春之丞は、光厚から馬術の指南を受ける。そこには師弟愛のようなものも生まれていたのだろう。

まもなくして春之丞は元服して信明と名前を改め、幕閣にデビューする。 

だが、その後も光厚と信明の親交は続いていた。 あくまで師弟の関係として。


ところが、森家でも変化がおきる。嫡子のいない兄・光嶢のために、光厚は兄の養子に選定されたのである。二男に生まれた光厚であるが、これで馬術一本に身を注ぐことはできなくなった。やがては兄の家老職を引き継ぎ、藩主を補佐する立場にならなくてはならないのだ。


これに先立つこと、天明5年(1785)には藩主の直英が将軍から大坂城の加番役を命じられて大坂へ赴くことになると、その供家老として同行する。
 江戸時代の大坂城は幕府の管理下にあったもので、譜代大名家の中から任期を定めて管理を任されるのである。外様大名は普請や接待といった経費のかかる役割ばかりを任されたが、城の管理するような重役は任されなかった。黒田家は譜代大名なのでこうした役割が回ってくるのだ。久留里藩のほぼ歴代の藩主が一世一代でこの役を受けている。大坂城に関する役目には城代の担当大名と、加番役の担当大名がいる。


ところが直英はこの役目の途中に29歳の若さで大坂城に病死してしまう。幕府からは直ちに代わりの大名が派遣されてくるのだが、何しろそれには数日掛かる。
 このとき、思いがけずも光厚が数日間、直英の代役として大坂城にとどまることになった。


 また、光厚は信心深い人柄で、大坂へ来たついでにと、堺の町で森家歴代の位牌を造らせて紀州の高野山に登り、森家所縁の寺院である釈迦文院に供養料180両とともにこれを納めた。後に森家の宗家格である赤穂藩主・森忠賛公から褒美に書軸を拝領(名跡の感書)した。さらに領国の久留里では山門を寄進したり、深川の浄心寺には青銅の灯篭を寄進したりしている。


そして寛政11年(1799)11月1日、藩主黒田直温が初めて将軍に拝謁をするために江戸城に赴くとき、これに同行して将軍徳川家斉公に拝謁した。家斉公の横に侍るは老中・松平信明。そう、かつて光厚が馬術を教えた弟子である。


信明の推挙があってか、将軍家斉公と光厚の間にも縁が生まれる。


享和2年9月には、江戸城西の丸の吹上馬場(現在の皇居・吹上大宮御所付近)で大坪流馬術を将軍に披露し、黄金10枚と葵紋の鞍を拝領している。


光厚には嫡子がいなかった。そこで愛娘に養子を迎えて継嗣とし、彼に家督を譲って隠居した。彼の名は光長。しかし隠居生活も束の間、光長は若くして病死してしまう。


幸いにも1歳になる孫がいたため、彼が元服するまではと、再び家督を相続して再勤した。このとき既に63歳。光厚には時間が無かった。この1歳の孫が後の森家6代当主・森光福だ。


 老中の信明を通じてこれを知った将軍家斉は、老骨に鞭打つ光厚を不憫に思ったのか、衣服2着と白銀10枚を贈り、信明にこれを届けさせている。また、信明からは和歌一首と茶碗が贈られた。因みにこの茶碗、由緒によると徳川家康が三河の寺院に下賜した茶碗との事で、特に松平信明は三河吉田藩主でもあったので、自分の領内から持ってきたものなのだろう。(後の7代森光新によって、この茶碗は黒田家に献上してしまう)


だが、光福の元服を待つことなく、文政2年(1819)の今日、江戸・下谷の隠居邸で病死。76歳の年齢を考えれば限界だろう。


実家である三日月藩主森佐渡守や、久留里藩主黒田家をはじめ、かつての弟子であった、諸大名家の使者からも弔問が殺到したと家譜にはある。
若き頃に光厚が馬術を教えた諸大名家の弟子といえば、この頃には藩主か旗本として政治の中心にいた人物が多いことは容易に察することができる。


 また、家譜に特記されている事を挙げてみれば、下谷の廣徳寺の霊屋には「光正院殿」と刻まれた1尺8寸の位牌が造られて安置されたとある。廣徳寺の霊屋はかつて津山藩主森忠政公が彼の息子、忠広の位牌を安置したお堂として建立したもので、以後赤穂・三日月藩主森家一族の位牌が安置されていた場所である。分家である久留里藩森家の位牌が安置されるのは特例と考えるべきだろう。


この廣徳寺、戦災で焼失してしまい、現在は跡地に分院が再建され本寺は練馬区に移転されている。

さて孫の光福についてはまだ15歳であったが、光厚の家督を継ぐことを許され、また光厚の妻・利世に徹底的な教育を仕込まれて若干26歳で藩の国家老に大抜擢を遂げた。国家老、すなわち県の副知事か収納長クラスである。祖父の家督を孫が継ぐ、これを嫡孫承祖(ちゃくそん・しょうそ)という。


自身が最も尊敬する人物について以上を掲出し、祥月命日の本日、正雅堂貞風の菩提を祈るものである。