Holo i mua! ー前を向いて歩こうー

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タロット勉強中!
日々の気付きと、あれこれと

お盆に入りました。

ライオンズゲートの期間が終わり、ペルセウス座流星群のピークを迎えたりとか。静かに、あっという間に日々が過ぎていく感覚です。

 

さて、タイトルの件。

昭和の後期、大オカルトブームが起きました。超能力者やら、UFOやら、大予言やら、「~~の知らない××」という番組やら。その後も定期的にブームは到来しているわけですけれども、あまりいうと年がばれる。

そのたび繰り広げられる、「霊の存在」論争。

「インチキだ・嘘つきだ・ペテン師だ・科学的でない・いるというなら証明しろ、はい論破!」という否定派と、「おばけいたんだよ、ほんとだもん! うそじゃないもん……」という肯定派。「科学的な証明」は難しいにも関わらず、身近に霊感がある人・心霊体験をした人がいるよ、って方は珍しくない。実際、おばけっているの? いないの?

 

ここからは、私の独断的な考え方なので、「まあそういうこともあるか」程度にみていただければ。

実際に「霊魂」とか「悪霊」とか「地縛霊や浮遊霊」が存在しているかといわれれば、会ったことはない。けれど、見たことがないからといって、ないといいきることはできない、と考えています。

人間の目は、可視光線しか認識することができません。虹のスペクトルでいうと、赤・オレンジ~紫までの間、ということですね。じゃあ、赤の外の光(赤外線)と紫の外の光(紫外線)は存在しないか、というと、みえないけれど存在しています。実際、鳥や虫は紫外線を見ることができるそうですね。

また、人間同士であっても、同じように見えているとは限りません。視力の違いや色覚の違いがあり、色の認識が違っている場合があります。視覚だけでなく、聴力も、年代によってさえ聞こえ方が違ってくる。(勝手にリンクを貼ってしまいますが、試してみたい方はぜひ)

 

 

虫の声も、日本人とポリネシア人にしか聞こえない、という研究結果があると聞いたことがあります。

 

日本語に「空気を読む」という言葉があります。

例えば。

もめ事があった部屋に、二人が入ってくる。

一人は、(あれ? なんか空気がおかしいな)と感じて口をつぐむけれど、もう一人は「いやあ、まいっちゃったよ、道が混んでてさぁ」とへらへら笑いながら話して、一緒に入室した人から「おい、空気読めよ」と遮られるけれど、「なんだよ、空気って?」ときょとん。

この「空気」って、人と人のコミュニケーション上の感情の澱のようなものかと思います。直前まで盛り上がっていれば、思わず「なんかいいことでもあった?」と浮かれてしまうような、やりとりの残滓。

けれどこれも、敏感に感じる人と、まったく感じない人がいる。

 

中学生が不幸にも横断中に事故にあって亡くなってしまう。

その場所には、暗い感情の澱が積み重なる。

実際に事故を見た人、加害者、被害者の家族、知人、友人。

ケンカをして気まずくなったまま、なぜ仲直りしなかったんだろうという後悔や、部活を頑張っていた姿、友だちと笑い合っていた姿の思い出。まだ若かったのに、人生これからだったのに、悔しかろうという同情や共感。もしかしたら、亡くなった本人の思いも。

そういった「思い」が積み重なって少しずつ形になっていく。

敏感な人は、その「思いの集合体」を、いないはずの人がいる、と感じとってしまう。

そういうことも、あるかもしれない。

 

「なぁんだ、じゃあ、おばけがみえたからって、それはただの幻覚みたいなものなんだ」と安心しきるのは、ちょっと待っていただきたい。

人の思いやイマジネーションって、実体がなくてもとても強い、ということをお忘れなく。

後悔や悲しい気持ち、マイナスの感情ばかりが集まれば、よくない存在になっていってしまう。存在が強くなっていけば、その場所を通るだけでなんだかぞわっとした感覚を得る人も出てくるくらいには。

 

お盆には、先祖の霊が帰ってくる、といわれています。

この現世に私たちが肉体をもって存在しているのは、ご先祖様の存在あってこそ。今よりももっと子どもの命を守り、育て上げることが難しかった時代、必死に命を繋いできてくれた誰かのおかげなのは間違いない。

親の親、そのまた親、彼らのピンチを救ってくれた恩人。

そんな存在に、「安らかにお過ごしください」とそっと感謝をしてみるのにいいタイミングではないでしょうか。