30数年ぶり歴史学者の手になる『日本通史』

 

 「日本通史」というタイトルを見て、メルマガ読者のみなさんは何を思い浮かべるのでしょうか。若い世代の方のなかには、「こんな言葉ははじめて聞いた」という方もおられるかもしれません。だって、30年ぶりに刊行された「通史」ですから。

 

 私は、1973年に大学に入学した世代ですが、社会科の入試科目としては、数ある選択肢のなかで日本史と世界史を選んだ世代です。それぐらい高校の歴史の授業は面白かった記憶があります。歴史の本もむさぼるように読みました。

 

 ある時代の特定の出来事を叙述した歴史書も読みました。日本史では『秩父事件』とか、世界史では『パリ燃ゆ』とか(これは小説ですけれど)。

 

 でも当時は、古代から現代までの歴史を、一人の歴史家だけで叙述する「通史」も存在していたのです。すぐに思い出すのは、井上清の『日本の歴史』(上中下)、あるいは上原専禄の『日本国民の世界史』。分野別としてはそれ以前に、家永三郎の『日本文化史』)なんかもありました。どれも岩波書店ですけれど。

 

 でも、1990年代後半の網野善彦の『日本社会の歴史』(上中下)以来、そういう「通史」は姿を消しました。なぜでしょうか。

 

 そこにあるのは、歴史観の敗北です。それをもたらしたのはソ連など社会主義の崩壊でした。

 

 戦後すぐ、日本ではいわゆる「戦後歴史学」が隆盛期を迎えます。戦前、日本の歴史学は皇国史観に縛られていたわけですが、言論の自由が実現したことによってマルクス主義が影響をもつようになり、歴史学の分野では「史的唯物論」が幅を利かせるようになります。その1つの核心は、歴史は原始共同体→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義へと発展するという歴史観でした。

 

 一人ひとりの歴史学者には、自分の専門の時代や分野があります。例えば中世の経済史が専門だというようなものです。しかし戦後、史的唯物論にもとづき、歴史観のはっきりした歴史学が重宝された結果、自分の専門を超えて一人で通史に挑戦する歴史学者が現れたわけです。

 

 そういう歴史書は、歴史をいわゆる「記憶もの」と捉える考え方とは無縁ですし、細かい時代考証などにも入り込まないので、読者に考える材料を提供してくれるのです。だから私も歴史学が好きになったのです。

 

 しかし、ソ連の崩壊は、そこに逆流を生み出します。だって、史的唯物論によれば、世界は最後は社会主義の勝利で終わるはずだったのに、その敗北が目の前にあらわれたのですから。

 

 歴史学者のなかでも、ソ連や中国は社会主義とは言えないと思っていた人がいて、そういう人は影響を受けませんでした。けれども、歴史観があふれた歴史書を書くことは多くの学者が躊躇することになり、それぞれの時代の実証的な研究や人びとの暮らしの伝承研究などが主流になっていきます。一人の歴史学者が通史を書く試みは頓挫したのです。

 

 一方、この時期、右翼的な言論者は、社会主義の崩壊をあざ笑うように、「通史」に挑んで来ます。ドイツ文学者である西尾幹二の『国民の歴史』が最初でしたが、百田尚樹の『日本国記』ならご存じの方も多いでしょう。こうして「通史」は、歴史の専門家でもない右翼の独壇場になった気配が漂っていたのが、21世紀の歴史学の現状でした。

 

 2006年にかもがわ出版に入社した私は、その現状を打開したいと考えていました。そして、2008年頃でしょうか、別の本のご相談で小路田泰直氏を奈良女子大学に訪ねた際、氏が「通史」の野望を持っていることを知り、それ以来、事あるごとに執筆を促してきたのです。 

 

 『日本通史—津田左右吉・丸山眞男・網野善彦の地平を超えて』』は、その十数年来の私の思いが詰まった本です。著者にとっては数十年来の苦闘が実った本ということになるのでしょう。是非ご購読をお願いします。